仔猫ちゃん 前編







 ふと空を見上げると、陽射しが天頂にかかろとしていた。
 家々の道なり、塀に沿って歩いているとうまい具合に日陰となる。考え事をしながら歩いていたから、日陰の道が終わったことにすぐには気づかなかった。
 額に片手をかざし目を細める。もともと色素が薄いから今日のような容赦ない夏の陽射しは正直あまり好きではない。梅雨が明けたのが数日前。その時には鬱陶しい灰色の空に飽きて、早く青空が見たいものだと思っていたのだが。
 せめてあの日もこれくらいの陽射しが、明るい空があれば、あんなことにはならなかったのにと、八つ当たりめいた気持ちでため息を落とす。
 カカシは一昨日までイルカと同じ任務についていた。
 三つの小隊がそれぞれの役目を負って全体ではひとまとまりでこなす、大掛かりな山賊討伐の任務だった。カカシはイルカと別の隊の隊長で、イルカは他の隊の構成員だった。イルカのように中忍としての経験をいくらでも積まなければならない頃はとにかく手当たり次第に任務をあてがわれる。もちろん徐々にレベルをあげていくことは当然だが。イルカは同じ時期に中忍になった仲間たちと任務に参加していた。
 逼迫した現場ではなかったから空き時間にはイルカと話すこともできた。5月に心が通い合ってからは穏やかに過ごす日々が続き、イルカと同じ任務についていることでカカシの心は浮き足立っていた。任務中であったが、任務後の約束を取り付けて、任務終了を心待ちにしていた。
 任務の最終日だった。
 イルカたちの隊が逃げる敵を深追いしてしまい、1名の者が大怪我を負う事態となってしまった。深追いしてしまったのはイルカを含む中忍たちで、隊長が慌てて後を追ったが、おりしも山間の足場が悪いところに加え、梅雨のしめくくりとばかりに豪雨となっていた。
 もしも天気がよく視界が拓けていたなら、イルカたちは敵のトラップもいち早く察知して深追いすることもなく任務は無事に終わっていたことだろう。
 もしもがないことはわかっていながらもイルカが関わることではどうしても私情を混ぜた考え方をしてしまうカカシだった。無論それを実際の場でかざすようなことはしないが、イルカが自分の隊にいればよかったとか、ともかくイルカが怪我をしなくてよかったとか、子供のように考えてしまう。
 イルカたちの隊は、上層部からこっぴどく叱責を受け、反省文とこの先の任務にかかわるいくつかの作戦立案を命ぜられた。期限付きの罰則のおかげで、カカシはイルカとの久しぶりのデートを流されてしまったというわけだ。
 帰還し、執務室からでてきたイルカと共に帰ったが、やはりイルカは落ち込んでいた。カカシの話に笑顔をみせくれたが心ここにあらずで、一楽に寄った後の分かれ道で、約束はまた後日、とすまなそうに言われた。
 仕方ないとは理性でわかっていても、感情は別だ。任務が終わればイルカとゆっくりできる、あれをしようこれをしよう、日帰りでいいからどこかに出かけようと頭の中をイルカとのことでいっぱいにしていた身としては寂しくて仕方ない。
 一日、我慢した。だが我慢はそこまでだった。
 イルカのことを考えて熟睡などできなかったが、朝方うとうととして、うっすらと汗をかいて目を覚ましたカカシは、スイカを手に、イルカの家に向かうことにしたというわけだった。



 イルカが両親から受け継いだ平屋の一軒家。引き戸の玄関に立って呼吸を整える。帰って欲しいと言われるかもしれないが、せめて一目、顔を見たい。できるなら少しでも手伝うことがあればと思っている。覚悟とともに声をかければ、しばしの間ののち、近づいてくる気配。からりと戸が開いた。
 目の前に立つイルカに度肝を抜かれた。
 上半身は裸でカーゴパンツを履いているだけだったのだ。
 ごくりと喉が鳴ったのを聞かれただろうか。
「カカシセンセー」
 イルカは驚いたようだが、表情は明るくて、安心する。イルカはいつもは天井で結わえている髪を下の方でゆるく結んでいた。
「あー、ほら、どうしてるかと思ってさ。陣中見舞いの、スイカ」
 動揺を隠すために早口でそう言ってスイカをかかげれば、イルカは笑顔をみせてくれた。
「おおー。ありがとうセンセー。俺スイカ好きなんだ。ちょっとあがっていきなよ。一緒に食べよう」
 あっさりと招き入れられ、カカシは拍子抜けしてしまう。嬉しいのだが、思わず問い返していた。
「いいのか? 作戦立案してるんだろ?」
 カカシの言葉にイルカは鼻の頭をかいた。
「ちょっと煮詰まっていたからさ。気分転換にちょうどいいだろ」
 笑うイルカの目が赤いことに気づいて、カカシは思わずイルカの頬に手をのばしていた。
「目が赤い。徹夜したのか?」
「うん。でも朝方仮眠とったから大丈夫」
「そっか。でも、あんまり根詰めないほうがいいぞ」
「だーいじょうぶだって。俺若いから徹夜くらい平気だし」
 茶化すような口調に安堵するが、イルカの根本が真面目過ぎるほどで、意外と頑固なことは知っている。だからカカシは言葉を選びつつ口をひらいた。
「なあイルカ。俺は、上忍で、仕事的にはおまえの上司だな?」
「なに今更のこと言ってんだよ」
 イルカのもっともな反応に鷹揚に肯いてみせた。
「だよな。だけど、プライベートでは対等な恋人同士だろ。で、大切な恋人が困っている。その場合、手助けするのっておかしいか? 俺は普通なことだと思うけどな。友達同士でも同僚でも、仲のいい相手が困っていたら助けたいって思うし、できることがあればしてあげたいって、イルカだって思うだろ?」
 真摯に訴えかければ、イルカの視線が揺れる。
 あと一押し、とばかりにカカシはイルカの手をとった。
「な〜んて、ただのたてまえ。デートの約束が延期になったからさ、寂しいわけ。俺ってばほら馬鹿みたいにイルカのこと好きだろ。だから、イルカのそばにいたいんだよ。もちろん邪魔はしないし、必要最低限のレベルでしか助言もしない。イルカが必要としなければ何も言わない。その時はおさんどんに徹するから、だから、そばにいさせてよ。ね?」
 言葉はかるく、だが視線にはせっぱ詰まった気持ちを込めた。
 互いの気持ちをさらけだした温泉旅行の時にも伝えてある。カカシはいつだってイルカのそばにいたくて仕方がないのだと。
 カカシの視線を受け止めていたイルカが喉の奥で笑う。
「なんだよそれ。センセーってほんっとに俺のこと大好きだよな」
「そうなんだよね〜。自分でもびっくりなくらいにイルカマニアなんだよ俺」
 真面目に返せば、イルカの頬が心なしか赤くなる。ばっかじゃないのとぶっきらぼうに口にして背を向けるイルカは耳まで赤くしていたのだった。
 そんなイルカを抱き寄せたい衝動にかられるが、両の手をぐっと握りしめることで耐えるカカシだった。



 ちょうど昼の時間だったから、そうめんで昼を済ませて、スイカを食べて、一息ついてからイルカと共に卓袱台に向かった。
 イルカが上半身裸のままだったらさすがにシャツを着て貰おうと思っていたカカシだが、イルカがちゃんとTシャツを着てくれて安堵する。もしも普通の恋人同士であれば、恋人の前で上半身裸というのはきわどいことだ。温泉でも思ったことだがイルカはそのあたりの自覚は薄いのかもしれない。警戒心がないことを喜べばいいのか哀しめばいいのか複雑なところではある。
 イルカは居間に置いてある卓袱台に資料を広げて座椅子を置いて作戦立案に励んでいた。
 反省文は書き終わり、残りはレポート用紙十枚ほどの宿題というわけだ。
 イルカが言っていたようにレポートはあと残り少し。落としどころをどこに持っていくかの部分だった。
 渡されてざっと読んでみれば、特に破綻するような箇所もなくよくできていた。だがきれいにまとめられ過ぎて逆にどこかに隙ができてしまうかもしれない。イルカが悩むのももっともと言えた。
 資料を手にすぐさまレポートに没頭するイルカのことを見つめる。
 イルカと顔を合わせた時点で気づいていたことだが、家の中にはイルカの匂いが満ちていた。
 イルカは昨日の昼間にシャワーを浴びて、夜は風呂に入らずに眠るのも忘れて作業に打ち込んだと言う。
 近づけばなおさら、イルカが香る。
 必死で考えている横顔に見入られる。またたきも忘れて、目を奪われる。見ているだけでは飽きたらず、なめらかな頬に手で口で触れたいと思う。
 真剣な横顔から目が離せない。息苦しささえ覚える。どうしてもイルカに会いたかったが、やはりくるべきではなかったのかもしれない。大好きな存在と部屋の中に二人きりだなどと、おかしな気持ちにならないわけがないではないか。
 イルカの誕生祝を兼ねた温泉での一泊から、目に見えて変わったことはない。だが二人の間にぎこちなさは消えて、心の中に言葉をためる事は少なくなったし、手をつないだりキスをすることは自然とできるようになってきた。
 もう少し先に、ともちろん思う。だが、うまくタイミングをつかめないことと、少しばかり躊躇する自分がいることは確かだ。とにかくイルカに関してはより慎重になってしまう。
 イルカを好きになって、臆病な自分を知った。
 人を好きになると眠れない夜が訪れることを知った。
「ねえセンセー、ここなんだけど」
「! お、おう、どこだ?」
 急に顔を上げたイルカに咄嗟に取り繕うこともできずに幾分引きつった笑顔になってしまう。
「なんだよセンセー。声裏返ってるけど」
「そんなことないぞー。それより、何か質問か?」
「あ、うん。ここなんだけど、この部分、昔の記録なんだけどさ……」
 資料を指さしながら、カカシのほうに体を寄せてくるイルカは、ただ真剣にレポートを仕上げようとしているだけだ。それは重々承知だ。だがそれでもカカシは高鳴る心臓を心の中で静まるように叱咤して、平常心平常心とお題目のように内心で唱え、イルカの質問に答えるのだった。
 真剣に取り組むイルカに助言をしたり教えたりしているうちにいつしかカカシも没頭していた。
 時間が経つのも忘れて二人でああだこうだと作戦立案をした。そして、これだ、とベストな回答にたどりついたのは二人同時だった。
 顔を上げたのも同時だった。
 イルカの顔がほころぶ。カカシの顔もつられるようにして笑む。
「これだよこれ。できた!」
「俺もこれがいいと思う。完成だ」
「うん。よかったあ」
 心からの吐息。少し上気したイルカの頬。笑いかけられて、カカシは思わずほんの少し顔を寄せていた。
 かすかに触れてすぐに離れる唇。イルカがかるく目を見開く。
 意外と長い睫毛がよく見える。
 瞬きに誘われるようにもう一度唇を重ねる。さりげなく舌をもぐりこませたが、イルカは口を開けてくれない。
「イルカ、お願い、くち、開けて……」
 カカシの願いにイルカは肯いてくれずにそっと肩を押し返してくる。
「駄目だよ、俺、汗臭いし……」
 そんなことを気にするイルカはかわいらしいのだが、カカシにとってとるに足らないことだ。くだらないことで拒まれるのも癪で、カカシはイルカの頬を両手ではさむと強引に口をこじ開ける。イルカも本気で拒絶する気はないのか、ためらいがちにではあるがカカシの舌を受け入れる。
 熱い口内を味わうように舌を動かせば、イルカの眉ねが寄せられる。音をたてて唾液をすすり、伸ばした舌を前歯の裏の固いところまで忍び込ませてそこをつつけばイルカがびくりと震える。
「ん……センセー」
 熱を秘めた艶っぽい声。無意識の媚態に誘われて、カカシはゆっくりとイルカに体重をかける。座椅子が傾き、バランスを崩したイルカを抱き寄せて、上手い具合に横にずれた。
 イルカの顔の横に手をついて見下ろせば、イルカは赤い顔をして睨んでくるが、潤んだ目と赤く濡れた唇ではただかわいいばかりでカカシの口元はどうしてもゆるんでしまう。
「イルカ、かわいい」
「かっ、かわいいとかそんなのどうでもいいから、どいてくれよ」
「なんで?」
「なんでって、だから俺、昨日の昼にシャワー浴びただけだから汗臭いだろ」
「うん。イルカのいい匂いがする」
「それは汗臭いってことだろ!」
 真っ赤になって声を荒げるイルカの髪を片手で梳く。優しく優しくイルカの気を静めるように繰り返し手を動かせば、イルカの表情が段々と落ち着いてきた。
「センセー、どいてくれよ」
 イルカがそっと口にするが、カカシは聞こえないふりをする。
「この家中にイルカの匂いが充満しててさ、俺家の中に入ってからずっとやばいくらいにドキドキしっぱなしなんだよね。理性を総動員してイルカを押し倒さないようにって頑張ってた」
 イルカの鼻の頭にキスをする。
「でも宿題終わったから、もういいよね? ね? いいって言ってよ」
「なに、言ってんだよ」
 困ったように口を尖らせるイルカの耳元に口を寄せた。
「イルカの匂いが濃くて、たまんない気持ちになる……」
 低く囁いて耳たぶを噛めば、イルカが身をすくませる。
「やめ、ろって……。馬鹿、やろー」
 そのまま口を首筋に移動させて、そこを吸い上げて唇の痕をつければイルカの鼻から息が抜ける。鎖骨を甘く噛んで、シャツの裾から手をしのばせて胸に触れればそこはすでに固くなっていた。触れて、つまむ。イルカはその都度びくびく震えて体をよじる。
「センセー!」
 せっぱ詰まったようなイルカの声にカカシは少し乱暴にシャツをまくり上げて、片側の胸に吸い付いた。
「あっ……!」
 ちゅうと尖らせて先端を舐めればイルカはむずがるように体を丸めようとする。
「やだ、やめろよ、馬鹿! ばかカカシ! ヘンタイ!」
「ヘンタイって、そりゃないでしょうよ」
「うるさいうるさい!」
 イルカはカカシの顔に手を伸ばしてくる。ひっかくようにしてカカシを突っぱねようとする。足まで上げようとする。その必死な姿にカカシはどうしても顔がにやけてしまう。脳裏ではかわいらしい仔猫の姿まで連想してしまうのだから重傷だ。
「ねぇイルカ、“にゃあ”って言ってみて」
「はあ? なにいってんだよ。ばっかじゃねえの! ばーかばーか!」
「馬鹿でもいいから、言って。“にゃあ”って」
「誰が言うか!」
 強情なイルカ。まあ素直に肯くとは思っていなかったが。
 カカシはさりげなく手を下の方に伸ばし、ためらうことなくイルカのカーゴパンツの中に手を入れた。
「ちょっ! やめろよ!」
 イルカはカカシの手を慌てておさえるが、カカシの手は反応しはじめているイルカの下肢にすでに触れていた。しなやかな弾力にカカシの口元はゆるむ。
「お願いイルカ。“にゃあ”って言って。お願い」
 口調は優しく。だが下肢を握りこむ手はイルカの抵抗などものともせずにゆるりとうごめかせて煽る。
「! センセー!」
 ぎりぎりと歯を噛みしめて睨み付けてくるイルカに余裕で微笑みかける。
「“にゃあ”って。一言でいいから。ね?」
 視線を交わす数秒か数十秒。互いの体にはじわりと汗が滲み始めてくる。
 イルカのきつかった視線が徐々に緩む。困ったようなすねたような幼い顔にますますカカシの心臓は高鳴っていく。イルカはふいと顔を背けて、吐息をこぼす。カカシの気持ちをはかるような顔でちらりと視線を流して、もう一度息をついて、そして。

「にゃあ……」

 かすれた、小さな声。
 だがそれだけで充分だ。カカシの全身がかあっと熱を持つ。組み敷いている存在の凶悪なほどのかわいらしさに頭が煮えたってくらくらとする。
 カカシはたまらずイルカへと体を沈めていった。





後編