ふたりの気持ち 後編







 骨がきしむほどの抱擁。息が止まりそうなくらいのくちづけ。
 そんなものが現実にあるのだとは想像したことがなかった。作られた世界のことだと思っていた。
 それが今、現実に、自分の身に起こっていることに今ひとつ思考がついていかない。
 口づけは執拗で、激しくて、背筋がぞくりとして、体の奥深い部分を刺激する。ともすれば朦朧として流されそうになる意識を立て直そうと顔を背けても、カカシは止まらない。
 かわいい、だなどと聞き捨てならないことを言われてかっとなってもカカシは夢中で、離してくれない。それどころか口や顔だけではなく耳も口に含まれて力が抜けそうになる。
 嘔吐したばかりの身としてはこんな時にキスなんてしたくない。そう訴えても、カカシは更に深く舌をさしこんでくる。
 キスだけで、息が上がる。心臓は馬鹿みたいに、狂ったみたいに鼓動を刻む。イルカはカカシ以外の人間とキスなんてしたことがない。だからよくわからないが、それでもカカシのキスは巧みなのではないかと思う。イルカが苦しくなると息をつかせ、ほっとしたところで逃げをうつ舌をとらえて、絡ませてくる。ぬるりとした感触に最初は気持ちが悪いと思っていたはずが、いつしかカカシのなすがままに自分からも舌をあずけ、熱い息をこぼしていた。
 熱と、肉の感触と、唾液と。
 イルカの意識はだんだんとうつろになってきた。
 カカシが何か言っている。

 すきだあたまがおかしくなるきらいにならないでいきていけないずっといっしょにいたいはなれたくない−。

 ああ、もう。なんだよそれ。何いってんだよ、俺よりずっと大人のくせに、ガキみたいじゃん……。
 呆れた気持ちとくすぐったいような気持ちがない交ぜになったところでイルカの意識はブラックアウトした。



 ゆるくあたる風に徐々に覚醒を促され、そっと震えるまぶたを開けた。暗がりではあるがぱちりと目が合った途端、うちわを放り投げたカカシは勢いよく土下座していた。
「すまなかった!」
 大きな声での謝罪だった。
 わけがわからないながらも、掛け布団を捲ったイルカはゆっくりと体を起こす。つきりと頭に痛みが走り、ふっと息をつく。
「……俺、どうしたんだっけ」
 カカシに訊いたわけではなく、おのれのなかで記憶をたどる。
 いきなり気持ち悪くなってトイレに行った。そこにカカシがやってきて、吐いて、部屋に戻って、待っていてくれたカカシに八つ当たりして、そして……。
「あ……」
「ごめん! 本当にごめん!」
 カカシは畳にめりこみそうなくらいに頭を押しつけて深く土下座をしている。
 イルカはカカシをしばし見つめた。気絶するまでは夕の膳が置かれた部屋にいた。今は布団に入っている。カカシが運んでくれたということだ。
「センセー」
「ごめん! 謝ればいいってものじゃないことはわかっているけど、でもごめん! 俺、かあっとなっちゃってわけわかんなくなって! ほんっとにごめん!」
 畳に体が沈んでいくのではないかと思えるくらいにカカシは懸命に土下座をしている。その姿を見ていると、イルカの口元は自然に笑み崩れ、とうとう笑い出していた。
 なかなか笑いやまないイルカを不審に思ってか、おそるおそるといった様子でカカシが体を起こす。
 しおれた姿にイルカはますますおかしさを覚えた。
「イルカ」
 少し恨めしそうなカカシの声。
「ごめ、ちょっと、待って」
 それでもなかなか止まらない笑いを必死の努力でなんとか収める頃には、さすがにカカシもむっと口を尖らせていた。
 はあ、と深く息をついたイルカは、笑顔のままでカカシを見つめた。
「センセー、かっこ悪ぃ」
 ずばり言ってやれば、カカシはうっとのけぞる。
「だから、言っただろ。俺はかっこよくなんかないって」
 ますます口を尖らせるカカシにまたイルカは小さく吹き出した。
 イルカを抱きしめて、すがるように必死に言い募っていたカカシ。
 今、目の前でしょげているカカシ。
 でも、凄腕の上忍で、多くの忍から憧れやら尊敬の目で見られているカカシ。
 どれもすべてカカシだ。
 唐突に、視界が開けたような感覚をイルカは味わっていた。カカシだって、人間だ。いろいろな面を持っていて当然だ。なのに、カカシの一面だけを見て思考が凝り固まっていた。イルカはとっくにカカシの様々な姿を知っていたではないか。それこそ、いやっていうほど知らされていたというのに。
「あ〜あ。センセーってばほんとかっこ悪ぃの」
 重ねて言えば、カカシはおそるおそるといった様子で問いかけてきた。
「幻滅、したか?」
「うん」
 カカシはわかりやすく目を見開いて息をつめた。その姿ににんまりと意地悪く微笑んだイルカは舌を出す。
「うーそ。幻滅なんてしないよ。むしろ俺のほうが反省」
「え?」
 イルカは少し居住まいを正してから口にした。
「俺さ、なんか煮詰まっていたんだよね。カカシセンセーはすげぇ上忍なのに俺は落ちこぼれ中忍だから、釣り合わないよなあとか男として情けないなあとか」
「そんなことない。イルカは」
「ちょっと黙ってきいてよ」
 イルカの自嘲を否定してくれるカカシの気持ちは嬉しいが、強引に黙らせる。
「それで一人で空回りしてさ、こんな身分不相応な旅館に気後れもして実は内心落ち込んでもいたわけ。カカシセンセーってば浴衣姿かっこいいし、大人の余裕かましてなんにもしてこないし。俺ばっかりどうしようどうしたらいいんだって焦ってさ、かっこ悪いなあって」
 イルカは神妙な顔で律儀に黙ってくれているカカシに一転して笑いかけた。
「でも、安心した。センセーも俺と同じでいろいろ悩んでいた感じだし。それに、かっこ悪いところあるって思いだした」
「俺は、イルカの前でかっこよかったことなんか一度もないからな。出会ってからずっと俺がどんなに醜態をさらしてきたか、イルカが一番知ってるだろ」
 心外だ、とばかりにカカシは言い募る。自分がかっこ悪いと威張って言う姿がおかしかった。
「センセーさっきさ、なんかごちゃごちゃ言ってたけど」
 じっと見つめれば、カカシはあからさまに視線をさまよわせて終いには肩を落とした。
「ごめん。さすがに、情けなかったな」
「そうだよ。マジで情けないよ。つぅか俺ちょっと傷ついた。なんだよかわいいって」
「え!? でも、イルカは、俺的に、かわいいし……」
 イルカの一言一言にカカシはいちいち大袈裟に反応する。気の毒なくらいに。
 それはきっと、不安だからだ。イルカが、不安にさせている。
 イルカは少し体を近づけて、思い詰めたようなカカシの目を間近で見つめた。
「センセーのこと好きだよ。俺は同情なんかで強姦した人間を好きになんかならない」
 強姦、と敢えて口にすれば、カカシは口を引き結ぶ。ふたりの間で一番のわだかまりはどうしたってこのことだ。まずそこから始めなければならなかったのだと改めて思う。
「俺さ、強姦されたあの夜のことは実はもうあんまり覚えていないんだ。もちろんあの時はカカシセンセーのこと恨んだし、絶対に許さないって思った。しばらく里を離れることになったのも、センセーのこと、怖くなったからって気持ちもあった」
 なるべく感情をいれずに淡々と口にしたが、カカシは沈痛な面持ちになる。そんな顔をさせたいわけではないが、イルカは続けた。
「旅先でさ、センセーのことよく思い出したよ。センセーと一緒に居酒屋行ったこととか、クラスの指導法について話したこととか。センセーのこと思い出して嫌な気持ちになることはなかった。あの夜のことを思い出すことはなかった。防衛本能だったのかなって思ったけど、それよりもセンセーとの楽しい思い出のほうが俺の中で大きかったんだよ。強姦、されたけど、でもそれは俺の中でセンセーとの楽しい思い出を消しちゃうほどではなかったんだよ」
 カカシはそっと目を伏せる。イルカがカカシの手をとるとカカシはびくりと体を震わせた。
「センセー言ってただろ。俺のこと好きだから強姦したって。好きでもないクソガキの体に欲情なんかしないって。それを免罪符にするべきじゃないのかもしれないけど、もうそれでいいよ。そうしようよ。俺はもうセンセーを許してるんだから」
 ぎゅっと握った手に力をこめる。しんとなった部屋の中で、互いのかすかな息づかいだけが耳に届く。
 カカシの手に徐々に力がこもり、強く握りかえしてくれた。顔を上げて、見てくれた。その目にすがるような色はあるが、卑屈なものはなかった。口元がわなないて、かすかに震える声でカカシは言った。
「ありがとうイルカ。俺のこと、好きになってくれてありがとう」
 引かれた手。カカシは頬をすり寄せる。
「絶対に、幸せにする。俺の全力で幸せにするよ」
 せつなく細められた目にイルカの心に温かなものが灯る。イルカも笑顔を返した。
「俺も、センセーのこと幸せにするよ」
 そう宣言すれば、もう充分死にそうなくらい幸せだ、とカカシは真面目な顔で告げる。イルカは手を広げて、カカシを抱きしめてみた。イルカの手でも十分にカカシを抱きしめることが出来る。そのことが嬉しい。カカシの腕もおずおずとイルカの背に回され、強く抱き返してくれた。



 それからそのままことにおよぶ、ということはなく、さっき吐いたのだからとカカシはイルカを寝かしつけてきた。
 傍らのカカシに、手をつないで寝たいと思い切って口にしてみれば、カカシは頷いてくれた。
 布団をくっつけて手を差しだせば、カカシは温かな手で握ってくれる。顔を向ければ、カカシはゆったりと笑っている。夜の静寂に、イルカの心は流れゆくようだ。
「……実はちょっとこういうの憧れだったんだよね。父ちゃんと母ちゃんが、よく手をつないでたんだ。いいなあって思ってた」
 ひそやかな声で言ってみれば、カカシはかすかに笑った。
「イルカの両親は、素敵な人たちだったんだろうな」
「素敵かどうかはわかんないけど、仲良かったよ。だから死ぬ時も一緒だったのかな」
 ぽつりと呟くと、カカシはイルカの手を口元にもっていき、指先に口づけてきた。そんなかすかな接触にどきりと鼓動が跳ねる。カカシの色違いの目にまっすぐに見つめられると頬が熱くなった。
「ぅわっ。なんか、恥ずかしいな〜」
 本当に照れくさくて茶化したのだが、カカシは真っ直ぐにイルカのことを見つめたまま静かに告げた。
「ずっと一緒にいよう。一緒に、生きていこう」
 その静かな声に頷いて、幸せを噛みしめて、イルカは目を閉じた。





 日の出前になんとか起き出して、カカシとふたり、高台からあさひを見た。景色に目を奪われるカカシに顔を近づけて、口の端にキスをした。振り返ったカカシは呆然として、イルカがいたずらめいた顔をすれば次には顔を赤らめた。大人とか、子供とか、関係ないんだなと思う。本気で好きになった相手なら、いつだって初めての恋のようになってしまうものなんだ、とわかった。
 人目がないのをいいことにカカシに腕をからめて、寄り添ってみる。
 ふたりで見る景色はひとりで見る時よりも比べようがないくらいに美しく見えた。
 帰り際、女将さんに、いろいろとありがとうございました、と頭を下げれば、お幸せに、と優しく微笑まれた。カカシセンセーともっと幸せになります、と宣言して宿を後にした。
 ふたり、手をつないで下山した。