ふたりの気持ち 中編







 イルカがいきなり起きあがった。うとうとしていたカカシだが、すぐさま意識がはっきりする。イルカの次の行動を息を殺してさぐるが、なんてことはない、洗面所へと向かっただけだった。
 ほ、と吐息をついて、過剰反応なおのれを嗤う。
 平常心平常心、と何回目になるかわからない呪文を唱えて目を瞑る。だが無意識にイルカの気配をとらえてしまう。だからイルカがなかなか戻ってこないことと、聞こえてくるえづく音にカカシも身を起こした。
 灯りのついた洗面所に近づいて、ドアをノックした。
「イルカ?」
 中の気配が緊張する。
「イルカ、具合悪いの?」
「……大丈夫。センセーは寝てていいよ」
 そういう声は頼りない。はあ、とカカシは肩を落とす。イルカのことだから、ここにいるのがカカシでなくても心配をかけたくないと思い無理をするだろう。だが、ここにいるのはカカシで、イルカの恋人だ。なんでもいい、甘えて欲しいし頼って欲しい。そのあたりの気持ちをイルカはわかってくれないようだ。
 ドアノブを回せばドアは開いた。
「センセー……」
 案の定、イルカは便器の前でしゃがみこんでいた。カカシを見上げる顔は真っ青だ。そういえば夕食の時にイルカはビールやら焼酎やらワインやら、あるものを適当に飲んでいた。今更ながらカカシは自己嫌悪を覚えた。イルカは酒を飲み慣れているわけではないのだからカカシが気を遣ってしかるべきなのに、いっぱいいっぱいの自分にかかりきりでイルカを止めるどころか勧めてしまっていた。
 カカシはイルカの隣に膝をついた。イルカの背をさする。
「酒飲んで風呂に入ったから回ったんだな。全部吐けば楽になるから」
 優しく声をかけたが、イルカはカカシの手を払った。そのまま顔を背けてしまう。
「イルカ」
「わかってるよそんなこと。わかってるから、センセーはあっちに行けよ」
 力のない声。それなのにカカシのことを拒む。イルカが一人になりたい気持ちはわからないでもない。だがこんなに苦しそうなイルカをほうっておけるわけがないではないか。
 カカシはふっと肩の力を抜くと、すべるような動きでイルカの顎をがっちりと片手でおさえると、口の中にもう片方の手をつっこんだ。
「!」
 イルカは驚愕に目を見開いて暴れようとするが、カカシは難なくイルカを押さえ込む。そして手際よく喉の奥に指を突っ込み、胃の中で渦巻いているものを吐き出せるように促してやる。イルカとて忍者なのだからもしもの場合に備えて異物を吐き出す訓練は受けている。だが弱っている今はカカシがやってしまうほうが早い。
 ぐぅとイルカの中からせり上がるものがある。カカシが手を抜けばイルカは便器に顔を被せるくらいに背を折って思う存分吐き出した。その間カカシはイルカの背をずっとさすっていた。
 いい加減落ち着いた頃を見計らって、カカシは洗面所を後にした。備え付けの冷蔵庫からペットボトルの水を取りだして、布団の上でイルカを待った。電気はつけずに、暗いままにしておく。
 ドアが開いた。襖の向こうで息をついたイルカだったが襖を開けてはくれない。



 洗面所から出た。思い切り吐き出したはずだが、まだ胃の中には中途半端にとどまっているものがあるようだ。
 イルカは畳の上に座り込んで、自己嫌悪に膝を抱える。
 かっこ悪いことこの上ない。ただ吐くならまだしもカカシの手をわずらわせてしまった。カカシはためらうことなく口の中に指をいれてきた。カカシの手に嘔吐したものを少しばかりかけてしまった。
 心配してくれる気持ちはありがたいが、吐いてしまえば収まる程度のことなのだから、ほうっておいて欲しかったという気持ちのほうが勝る。
 カカシはすでにかっこいい大人だから、イルカくらいの年の男が持っているプライドなんてもう忘れてしまっているのだ。ちゃちなプライドだとは思う。だがそれでも、そのプライドがあるから進んでいけることだってある。
 閉じてる襖の向こう。絶対にカカシは起きている。イルカのことを待っている。それがわかっているからここにいるしかない。
 このままで畳の上で寝てしまおうかと思った矢先、襖が、開いた。
 ちらりとカカシを見て、すぐに目を逸らす。口が少し尖ってしまう。無言のまま傍らに座ったカカシはペットボトルを差し出してきた。受け取って、一口水を含んだ。
「落ち着いた?」
 そっと問いかけられて、こくりと頷く。
「そっか。よかった」
 落ちる沈黙。酒を飲み過ぎて吐いたことなど笑い話にしてしまえばいいのだろうが、そんな気さえ起きない。とにかく今は放っておいてほしい。そんな気持ちをこめて膝を抱えたままカカシに背を向けたが、カカシはわかってくれなかったようだ。どこか焦ったような気配で、早口に謝罪の言葉を並べる。
「ごめんな。俺がちゃんと気をつけてやればよかったのに。ほんとごめん」
 イルカは黙ったまま水を飲む。沈黙が怖いのかカカシは言葉を重ねた。
「無理矢理あんなことして悪かった。でも、イルカが苦しそうなの見てられなくて。それに、俺、イルカの恋人だろ。その、なんていうか、もっと頼って欲しいし、甘えて欲しいから、だから、無理されると、キツい」
「センセーはわかってないよ」
 思わずカカシの言葉を遮っていた。声があからさまに尖っているのがわかった。少しだけカカシの方に体を向けるが、顔はまともに見れない。
「センセーみたいにかっこいい人間にはわからないかもしれないけど、あんなかっこ悪い姿見られたくないし、見せたいわけないだろ。こ、恋人だから、だから、友達とかよりももっと見せたくないんだよ。なんで、そういうのわからないかなあ」
「あ、ごめん」
「そうやって悪くもないのに謝るなよ。俺ますますみじめじゃん。かっこ悪いよ」
 ますます声を荒げてしまう。こんな、八つ当たりめいた言葉をぶつけるなんてよくないと思いながらも憤る気持ちをうまくおさえることができない。
「あのさ、イルカ、俺はかっこよくなんかないし、イルカはかっこ悪くなんかない」
「かっこ悪いよ!」
 ムキになって言い立ててしまう。腹の中の黒いものを押し出すようにゆっくりと息を吐き出して、カカシを見た。きつく睨みたかったのだがぐちゃぐちゃな心とのバランスがうまくとれずにまぶたが熱くなる。
「センセーには、俺の気持ちなんて、わかんないよ……。だってセンセーはほんとに、かっこいいから」
 声はかすかに震えた。口をへの字にして、すん、と鼻をすすると、眼球を熱くする涙がこぼれそうになる。乱暴に手のひらでこする。ガキのような仕草が情けない。
 こんな姿をさらしたくない。そこから逃げようと立ちあがろうとしたが、カカシに、腕をとられていた。
「はなせ……!」
 腕を払おうとしたが、その腕を強く引かれる。
 次の瞬間にはカカシの胸の中にいた。



 幼い子供のような無防備なイルカの姿に、カカシの欲は理性に跳び蹴りと喰らわし、理性は遙か遠く、宇宙の彼方まで吹っ飛んだ。
 カカシは伸ばした手で、イルカを抱き寄せた。ぎゅっと、腕の中に閉じこめて、体中でイルカを感じる。温かさ、弾力、息づかいに意識が朦朧とする。
「セ、ンセー……?」
 とまどうようなイルカの声だが、カカシは返事はせずに、イルカの頬を両手で包み込み、唇を寄せていた。
 焦点が合わないくらいの間近で驚きに見開かれるイルカの目。カカシは顔を傾けてイルカの唇に吸い付く。おのれの身に起きていることにうまく反応を返せてないイルカの口の中に舌を差し入れる。びくりと震えた体に愛しさだけが募る。
 かわいい。かわいいかわいいかわいい。
 なんて、かわいい存在なのだろう。
 逃げようとする舌を追いかけて、捕まえて、絡め取る。ぬるりとした感触のあとにざらりと深く触れれば、背筋がぞくぞくとする。息を奪うほどに激しく口を寄せて唾液を吸う。
「ちょっ、セ……」
 顔を背けられて、ぬるりと頬に唇が滑る。そのまま耳朶を含めばイルカは小さな声を上げる。
「センセー!」
「かわいい、イルカ。ほんと、かわいいい。食べちゃいたい」
「ばっ! ふざけんなよ、なんだよかわいいって!」
 イルカはカカシを引きはがそうと力をこめるがカカシは巧みに押さえ込む。
 イルカの耳を甘く噛めば、鼻にかかったようなかすかな吐息めいた声がイルカからこぼれて力が抜ける。そんなイルカの姿にますます心臓が鼓動を激しくする。
 もう一度唇を寄せて、ちゅっと音をたてて触れた。そこでイルカを見つめれば、カカシを睨みながらも潤んだ目、そして少しとまどった顔をしていた。
「センセー……、やめろよ。俺、さっき吐いたばっかだし」
 吐息が唇にかかる。いいわけめいた言葉で拒もうとするイルカをもう一度抱きよせた。きつくきつく、抱きしめた。
「センセー、苦しいって」
「うん。ごめん」
 口では謝るが、離せない。離してくれと言われたくない。だからイルカの口を塞ぐ。
「ん……、セン、セー……」
 濡れた唇、熱い吐息、舌はカカシを受け入れてくれている。そのことに陶然となり、しつこく、口が腫れ上がるのではと思うくらいに触れる。
「イルカ、好き。大好き。好きすぎて、俺、頭おかしくなりそう……」
 ちゅっと小さな音をたてたキスの合間に囁けばイルカが身じろぐ。
「ねぇ、絶対に、俺のこと、嫌いにならないで。捨てないで。お願い。俺イルカのためならなんだってするよ。俺もうイルカなしじゃ生きていけない。本当は最近は任務に行くのも嫌なんだ。イルカと会えないのが辛い。ずっと一緒にいたい。いっそのことイルカを任務に連れて行きたい。一分一秒でも離れたくない」
 情けないことを言っているかもしれないが、イルカに関してなりふりかまっていられる余裕はなかった。熱に浮かされたように普段心の底に押し込めていた気持ちが溢れてくる。
「イルカ、イルカは、ちゃんと俺のこと好き。同情とかじゃなくて、好き? 俺と一緒にいたいって思ってくれてる? ねえ」
 問いかけたが、イルカはなにも答えてくれない。
 もしかすると、とカカシの中で嫌な気持ちが膨れあがる。イルカは後悔しているのだろうか。好きだなとど言ってしまったことを悔やんでいるのだろうか。
 ごくりと喉を鳴らして、おそるおそる腕の中のイルカを伺えば、イルカはくたりとなって気を失っていた。




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