ふたりの気持ち 前編







 調子っぱずれの鼻歌が静かな山の空気と夜空に響く。
 楕円形の樽風呂に足を伸ばし、滾々とわき出る湯にイルカは浸かっていた。
 木の香がすがすがしく、見上げる夜空にはいっぱいの星々。自然と口元には笑みが浮かび、深く息をつく。ごちそうにおなかはいっぱいで、風呂は気持ちがいい。ゴクラクだなあと幸せを噛みしめる。
 ちらりと、入り口に目をやる。部屋のほうで動きはないかと気配をさぐっても、静かなものだ。
 極楽だが、ただひとつ足りないのは、カカシが一向にやってこないことだ。さきほど、間近で合った視線に熱さを感じたのは気のせいだったのだろうか。大浴場ではあまり落ち着かなかった。ここならカカシと二人きりでゆっくりと浸かることができるのに。きれいな星空を見上げることができるのに。
 大浴場ではずっと気持ちが高ぶっていたし、酒のせいで今も頭の芯がぼうとしているが、それでも少し落ち着いてみると、カカシに対して無防備すぎただろうかと懸念が沸く。カカシは大人だからイルカの態度に嫌な顔ひとつしていないし、至れりつくせりで気を遣ってくれる。
 そうだ、カカシはあまりに大人ではないか? とりあえず付き合っているというのに、イルカに対してなにか思うところはないのだろうか。すり寄ってはみたが、カカシは落ち着いていなすばかりだ。
 ふと、おのれの傷が多い体に目がいく。大浴場で話をした老人はこの傷を褒め称えてくれたが、そんなたいそうなものではないことはイルカ自身よくわかっている。
 馬鹿だった自分を忘れないための傷だ。そう思えばこの傷に対して恥ずかしく思うことはひとつもないのだが、違う意味で、恥ずかしいと思っている自分がいることをイルカは知った。
 カカシはとてもきれいな体をしていた。細身ではあるが鍛えられてさりげなくついた筋肉。目立つような大きな傷はひとつもない。鑑賞に堪えうる体を目の当たりにして、ついおのれを顧みた。カカシが好いていてくれることは疑うべくもないが、今更イルカの体に対してなにかもよおす気持ちは沸かないのかもしれない。
 そのことを残念に思う自分がいることに驚きながらも、カカシのことが好きなのだから、そう思うことも当然だと開きなおる気持ちだ。恋人同士、二人きりで温泉に来ているのだから、イルカとてそれなりの覚悟をもってやってきた。
 覚悟、だなどと少し大袈裟かもしれないが、カカシとの経緯を考えれば、それくらいの気持ちにはなる。
 カカシがどう考えているかわからないが、こうなったらイルカから仕掛けてみようかといたずらめいた気持ちが沸き起こる。けれどそう思うそばから、カカシを着火してしまうのも怖い気がするのだ。
 どっちつかずの気持ちを抱えたままイルカは空を見上げてため息を落とした。



 聞こえていた鼻歌が途絶えた。
 薄く目を開けたカカシは外の気配をさぐるが、上がってくる様子はない。ほっと息をついて再び目を閉じる。
 風呂に入った方がいいのだろうか。もしかしたらイルカは待っているのだろうか。だが入っていって少しでも迷惑そうな顔をされたら激しく落ち込むことがわかる。平気な顔を作れないかもしれない。
 ついさっき、間近でのぞいたイルカの黒々とした目。あの目が濡れることを知っている。少し肉厚な口元、そこから紡がれる吐息が甘いことも、知っている。
 目を閉じていると勝手にイルカがでてきて、カカシに手を伸ばす。優しく、抱きしめてくれるのだ。その姿を追い出そうとしても、イルカは離れてくれない。カカシが突っぱねれば悲しそうな拗ねたような顔を見せるのだ。
 妄想が止まらない。カカシはかっと目を見開いて跳ね起きると、頭をぶるぶると振る。布団が敷かれた部屋に移動して、ぴったりと隣り合った布団をなるべく引き離して、羽布団の下で丸まった。ぎゅっと目を瞑る。このまま眠ってしまえと念じる。
 二人きりで温泉だなんて、まだ早かったかもしれない。余裕をもって大人の対応ができると思っていたが、とんだうぬぼれだ。イルカに触れたくて触れたくて仕方ない。強く抱きしめて、交ざり合いたい。
 イルカとはいろいろとあったが、今は恋人同士で気持ちを確かめ合っているのだから、触れてもいい。そのことになんの問題もないはずだ。イルカだとて、カカシとそういうことがあるかもしれないと全く考えていないわけがない。
 だが、そう思うそばから、イルカに触れて信頼を失うことになったら、と恐怖が沸く。カカシがなにもしないと、カカシのことを信用して温泉行きを承諾したのかもしれないのだから。それを裏切ったら、もう二度とイルカは笑ってくれなくなるかもしれない。
 もしそんなことになったら、自分がどうなってしまうか、想像するのも怖い。今度こそ完全にブレーキを失い、イルカをどこかに閉じこめて、カカシのことだけを見るように、術でも仕掛けてしまいそうだ。
 再び起きあがったカカシは膳が並べられた部屋に戻り、残っている酒を空けた。口の端からこぼれるのも気にせずに一気に飲みきった。残っていた日本酒一升瓶の半分と焼酎一本は空になる。
 酒は強いが、さすがに息をつくと酩酊感がある。そのままもう一度布団に入りこめば、頭の中はほどよく浮ついた感覚で回る。
 情けないがこれでなんとか眠れそうだ。脳裏のイルカが少しばかり不満げな顔をしたのはカカシの願望が乗り移ったからだろう。イルカとはゆっくりと関係を築くと決めたのだから、と呪文のようにおのれに言い聞かせて、カカシはいつしかうとうとと眠りの淵に落ちていった。



「センセー……」
 結局30分以上入ってしまった。常には飲まないような量の酒を飲んだ後でもあり、さすがにのぼせそうになって慌てて風呂から出た。少しばかりくらりとするが浴衣を着て部屋に戻れば、夕餉の膳が並べられた部屋にはカカシはいなかった。ぴたりと閉じられた襖を開ければ、カカシは寝入っているではないか。
「……マジかよ」
 思わず小さなぼやきが漏れる。髪をタオルで拭きながら、イルカはカカシの枕元に座った。イルカがちゃんと畳に座れるくらいにふたつの布団の間は開いている。しかもカカシはイルカに背を向けるように眠っている。
 さすがにイルカはむぅと頬を膨らませる。逆に回り込んでカカシをのぞき込んでやれば、寝息もたてずに、しっかりと眠っている。漂う酒の香りはイルカが風呂に消えてからかなりの量を空けたことを伺わせた。
 ひとり風呂に浸かってもんもんとしていたことが馬鹿みたいではないか。そう思うとカカシに対して恨めしい気持ちが沸き、思わず鼻をつまんだ。
「こら、センセー。なんで寝てるんだよ」
 小声ではあるが耳元で文句を言えば、カカシはみじろぎする。起こしてしまったかと一瞬身を引くが、カカシはそのまま寝入る。
 凄腕の上忍さまがこれでいいのかと思うが、イルカに気を許している証かと、嬉しい気持ちもある。
 苦笑して、イルカはカカシの顔をのぞきこむように腹這いになった。両肘をついて手のひらに顎を載せて、カカシを見つめる。
「せ〜っかく俺やる気になってたのにねえ、馬鹿だねえセンセー」
 ふ、と息を吹きかければ、柔らかなカカシの髪が揺れる。イルカはにじりよって毛穴が見えそうなくらいにカカシに顔を寄せた。
 寝顔もカカシはきれいなままだ。目を閉じることによって硬質な美貌が際だつ。普段ほとんど覆われているせいか、白い肌は30になろうとする男のものとは思えないくらいにきめ細かな感じがする。
 ついでとばかりにイルカは鼻をくんくんとかぐ。石鹸と、酒の匂い。カカシ自身はどんな匂いがするのだろう。確か耳の後ろが匂う場所だとなにかで読んだことがある。ふんふんとかいでみたが、イルカ自身の湯上がりの匂いのほうが鼻につく。
 ん、とカカシがかすかな声を漏らし、イルカは近づきすぎた体を慌てて離した。さすがに目を覚ますかとしばし待ったが、寝息が届くだけだ。
 はぁ、と脱力したイルカは自分の布団に向かう。バスタオルで適当に髪を拭いて、布団に入ろうとしたが、思い立ってカカシのほうにぴったりと布団を近づけた。よしと頷いて布団に潜り込む。せめてこっちを向いてくれたらと思うが、カカシの背を見て眠るのもまた幸せだなあとふわふわとした頭で考えて、イルカは目を閉じた。



 イルカが寝入るのはあっと言う間だった。完全に眠った気配にぱちりと目を開けたカカシは腹の底からの太い息をついていた。
 イルカのほうをおそるおそる振りかえれば、驚くほど間近にイルカの寝顔があった。大きな声がでそうになり口元をおさえる。布団が、ぴたりとくっついている。自分を保つことに集中しすぎてイルカが布団を寄せたことにはまったく気づかなかった。
 起きあがったカカシは心臓のあたりをおさえた。鼓動が、ありえないくらいに早鐘のように刻まれている。
 あまりに無邪気なイルカに、さすがに恨めしい気持ちさえ沸き上がる。
 うとうととしていたのは確かだが、襖が開いた瞬間に意識は覚醒した。部屋中に満ちたイルカの気配に神経がざわめいた。寝たふりしかないと自分に言い聞かせ、Sレベルの任務以上の手強さを感じながらも眠っているふりを続けることにした。そのままイルカが布団に入ってくれれば特に難しいことはなかったはずだが、イルカは、カカシの元に身を寄せてきたではないか。
 意識しなくてもイルカの気配を全身でとらえ、イルカの匂いを敏感に嗅ぎ取ってしまう。イルカは間近でカカシの顔をのぞいていた。鼻をつままれた。何か小さく呟いていたが、耳に言葉としては入ってこなかった。
 イルカの気配が徐々に近づき、子犬のような呼気が顔やら耳の後ろやらに当たった時には、なにかを試されているような気にもなった。気が遠くなりかけた。もう無理かもしれないと思った時に、堪えきれずに吐息を漏らしていた。途端に遠のいたイルカの気配。頼む、頼むからもう近づかないでくれとなにものかに祈っていれば、やっとイルカは体を離してくれたというわけだった。
 正直、危なかった。もしもう一度近寄られていたら、理性は欲にはじき飛ばされたていたことだろう。
 イルカはかすかに口を開けて、すうすうと心地いい寝息をたてている。
 穏やかな寝顔に、カカシの顔もへにゃりとくずれた。やに下がっているといってもいいような顔をしているかもしれない。今度はカカシが腹這いになってイルカの顔をのぞきこんだ。
 もともと寝付きもいいのだろう。もうぐっすりだ。酒を飲んで風呂に入ったイルカの頬はかすかに染まっており、それがまたかわいらしい。まだ十代のぷくりとした頬をつつけば、カカシの指を押し返す。なにごとか口の中で呟いて、イルカはにこりと幸せそうに笑った。
 その寝顔に、カカシは思わず突っ伏した。
 可愛すぎる。なんて可愛い生き物なのだろう。食べてしまいたいくらいに可愛いという気持ちが心からわかった。
 はあはあと荒くなる息をなんとか整える。正座して深呼吸をする。落ち着いてから、そっとイルカの頬に指先で触れた。
 滑らかで温かなぬくもり。
 鼻の傷に指を滑らせればいやいやをするように顔を動かす。
 可愛い。ずっと見ていても飽きない。
 イルカのためならなんだってできる。イルカの望みはなんだって、どんなことでも叶えてやりたい。そのせいで他の人間が傷つくことになったとしても、イルカさえ幸せならそれでいい。
 イルカのために生きていきたい。そんな決意を密かに心の中で誓ったカカシだった。





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