プロローグ







 カカシと付き合い始めて思ったことは、イルカはカカシのことを少しばかり侮っていたのかもしれないということだ。
 なんといっても熱烈に思われている自覚はある。だからカカシはイルカのことを度が過ぎるほどに甘やかしてくるのではないかと心配する気持ちがどこかにあった。
 だがそれは杞憂だった。
 公私のけじめをきちんとつける性分なのかカカシが『上忍はたけカカシ』としての立場でイルカに接するときは、時にまわりが気にするほど厳しすぎることもあったし、イルカを贔屓するようなことは微塵もなかった。
 合宿の時にも失敗を容赦なく叱責されたわけだから予測できることではあったのかもしれないが、あの時は付き合ってはいなかった。だから両思いになった今となってはとイルカなりに心配していたわけだ。
 やっぱり自分は中忍。まだまだ甘いと自覚せざるを得ない。
 カカシの公平すぎる節度を守った態度に回りからのイルカに対するやっかみは消えていた。同情めいた声をかけられることさえあった。本当に付き合っているのか、いやすでに別れたのか、などと仲のいい友人たちは直接聞いてきた。
 別れるなんてことはあり得ないことはイルカ自身がよくわかっている。何故なら二人で会う時、カカシの視線は柔らかくなり、イルカのことが好きで好きでたまらないとばかりの見られる方が気恥ずかしくなるくらいの目を向けてくるからだ。
 だから仕事の時にカカシに手ひどく叱責されて、そのことを恨みがましく思うガキな自分はすぐに引っ込んで、気づけばカカシに笑いかけている。
 プライベートな時には間違いなく甘やかされている。カカシは優しい。イルカの希望を言えばカカシがかなえてくれないことはないのではと思うくらいに。
 大人なカカシをからかうような気持ちから、以前に天ぷらを食べに行きたいと言ってみた。老舗の高級な天ぷらのお店に行きたいと。
 カカシが天ぷらを苦手とすることは知っていた。だから天ぷらしかださないような専門店に行くことはさすがに難色を示すかと思っていたがあっさりと、笑顔で頷いて、お店では控えめながらも天ぷらを食べていた。
 天ぷらは嫌いではなかったのかと帰り道に問いただせば、やはり好きではないという。それならどうして無理して付き合ったのかと責めれば、カカシは照れたように笑って答えたのだ。
 イルカと一緒ならなんでもおいしく思える。イルカと一緒に食べたら苦手なものはないかも、と。
 その言葉にイルカのほうがカカシ以上に照れてしまった。
 なんて、盲目的な愛!
 愛されすぎて怖い、なんて、そんな鳥肌が立ちそうな言葉が脳裏を駆けめぐる。ガキの頃からイタズラばかりして男らしく生きてきた自分の人生にこんなことが起こるなんて予想の範疇を大きく超えている。いや、想像することすら出来なかった事態だ。カカシの脳みそは大丈夫かと失礼な心配までしてしまう。
 それほどにイルカを思うカカシ。
 だがカカシは、イルカに一度も触れようとしない。



 1月の始めに付き合い始めて、今は5月。
 4ヶ月の付き合いの間に恋人同士として普通にするようなことは何もしていない。
 互いが、特にカカシが多忙でたいした回数二人で会ってはいないが、それにしても、だ。
 せいぜい手をつなぐくらいだ。それもイルカの方から手を伸ばすことが多い。カカシは強い力で握ってくれるのに、別れる時にあっさりとその手は離される。
 なんとなくいい雰囲気になって、キスくらいされるかも、してもいいと思う時もある。だが、そんな時でもカカシは笑って手を振るのだ。
 ううむ、とイルカは考える。
 信用のおける友人に、普通付き合っている二人はどれくらいの速度で進展していくものか聞いてみた。
 その友人はおごそかに言った。そんなことに回答はない。個人差としか言いようがない、と。
 だが二人の年の差、同性同士ということを考慮して考えてみても、4ヶ月の間、一切、何もないというのは、なに理由があるとしか思えない、と。
 全くその通りとしか頷くしかなかった。
 理由。
 それはわかりきっている。カカシの中でイルカを強姦してしまったことが大きく根を張っているのだろう。
 確かにそれは間違いなく障害だ。だが二年経った今となってはイルカの中であの時の記憶は曖昧だ。衝撃を受けたことは間違いないが、おそらく防衛本能からか、忘れてしまえと記憶に作用しているのだろう。
 カカシはイルカと付き合う前、若干暴走気味な頃にひとの自慰をのぞいて手をだすとか外であそこをくわえるとか、すごいことを仕掛けてきた。
 だからイルカとしては、体の関係を求められた時はどうするべきか、と最初は緊張感さえ持っていたというのに。
 カカシとしたいのか、とおのれの心に問えば、それはまた複雑なところではある。怖いと思う気持ちがないとは言えない。なんと言っても男同士。イルカのほうが受け入れる立場になることに否やはないが、それでもなんのためらいもなく受け入れられるかといえば、悩むところだ。
 時たまなんとなく心がざわめく時はある。だが一人でする気も起きなくて、これでいいのか十代の青春が、と思ったりもする。
 カカシはどうなのだろう。イルカとは10違うから、カカシは今28。あまりがつがつした欲はすでに起きないような年なのだろうか? カカシと同じくらいの年で、もう枯れちまったよ、とぼやいていた先輩忍者もいた。
 一人でぐるぐると悩んでいるのも馬鹿らしくなり、キスくらい自分から仕掛けみようかと思っていた矢先のことだった。
「温泉?」
 久しぶりにカカシと会ったのは5月の半ばのこと。
 スリーマンセルを引きつれてのひとつきほどの任務から戻ったカカシと外で食事をしていた時だ。
「そ。イルカの誕生日の当日ってわけにはいかなくて申し訳ないけど、その後の一緒の休日に、一泊だけど温泉行かないかなあって思って」
 にこりと少し疲れた顔でカカシが笑う。それがまた男の色香をかもしだしているようで、本当にカカシは大人だなあと思う。
「すごくいいところなんだ。火の国の温泉郷の有名な旅館のひとつで、いろんな種類の温泉があって、料理もおいしいって評判がいい。イルカに予定がなくて、嫌じゃなければ、一緒に行きたい」
 もしもイルカが行きたくないと言えば、あっさりと、嫌な顔ひとつせずに引くのだろう。嫌だなんて言うわけないのに、もしかしたら言われるかもしれないと、カカシは本気で危惧している。
 箸を置いたイルカは、手を伸ばしてテーブルの上のカカシの手に触れた。
「もちろん行くよ。俺が温泉好きだって知ってるだろ。すっげぇ楽しみ」
 カカシの顔がぱあっと輝く。子供のように無邪気な笑顔になる。
「よかった。実は予約済みなんだ。断られたらどうしようかと思ってた。でも誕生日当日にお祝いできなくて、ほんとごめん。任務が入っちゃって」
 ごめんね、としゅんと落ちたかと思うと、でも一緒に温泉に行けるのが嬉しいと、カカシはイルカの手をとって揺らす。
 大人のカカシが、イルカの前では子供みたいな顔を見せる。凄腕の上忍で、ビンゴブックにも載っていて、憧れる人間も多いカカシのこんな顔を見ることができるのは自分だけだ。
 ちょっとした優越感くらい許されるだろう。そんなカカシを見ているとイルカも嬉しくなり、ふと、幸せだなあとしみじみと思う。
 自分のちょっとした言動でカカシのことを幸せにできることが嬉しい。カカシが嬉しそうだと嬉しくなる自分が好きだ。
 いろいろと悩んでいたことは一気に遠くに消え去った。
 きっとなるようになる。
 付き合ってから初めての一泊旅行。
 なにかあるならその時はその時だし、なにもなければそれはそれでいい。
 とにかくゆっくりとカカシと二人きりで過ごせることが楽しみだった。