カカシの思惑 A







 イルカが内風呂に消えた後、カカシはどっと脱力して畳に手をついていた。
 はああ、と全身で息をつく。Sレベルの任務よりも緊張感があった。
 まいった、というのがカカシの正直な気持ちだった。
 イルカは奔放すぎる。カカシがイルカのことをどんなふうに見ているのか、全く意識しないのだろうか。恋人同士だとい自覚はないのだろうか。
 宿に着いてから部屋でイルカを待っている間、二人きりの常ではない空間、どんなふうに接すればいいのか考えても考えてもこれだという答えが見つからなかった。
 カカシは油断するとイルカを際限なく甘やかしたくなる気持ちを懸命におさえて日頃は接しているのだが、日常から逸脱したこの場ではブレーキが緩んでしまいそうな気がする。
 どうしようどうしようと考えているうちにイルカの気配が感じ取れた。近づいてくるイルカ。落ち着かなくてカカシは窓際に立って、とりあえず深呼吸をした。
 そこに、イルカが入ってきた。カカシをみとめて大きく開かれた目。イルカの顔を見ただけで、カカシの心はふわりと浮き上がった。「おかえりイルカ」と声をかければ、イルカは部屋に飛び込んできた。
 駆け寄られてイルカの匂いを間近に感じて、カカシは内心では跳ね上がる心臓をなだめて、イルカを座らせた。
 イルカは女将と話したこと、美しい高台からの景色のことを一気にまくしたてた後に、ふいに気づいたように姿勢を正して、カカシをねぎらった。大好きな笑顔でお疲れ様でしたと言われただけで疲れは吹き飛ぶ。イルカと思いが通じ合ってからのカカシはイルカの笑顔に向かえてもらうために里に戻ってくる。
 イルカにまじまじと見られて、照れ隠しで茶化せば本気で男前だなどと感心され、カカシとしては取り繕うこともできずに顔を赤らめてしまった。
 なんてことだと、いい年して我が事ながら情けないやらなにやらだ。
 付き合った女たちもいたし、色町に出入りしたこともあった。けれど恋をしても溺れるほどのことはなくて、きっと自分の奥底はいつだって覚めているのだろうと思っていた。なのに、イルカに恋してからは……、いや、その言い方は正しくない。今まで恋なんてしたことがなかった。イルカに初めて恋をしたのだから。
 話の成り行きでイルカに肩を揉んで貰うことになった。
 背後に感じるイルカのぬくもりが心地いい。なんて思えたのはそこまでだった。急にイルカに抱きつかれて、飛び上がりそうになる。とりあえずイルカが背後にいてよかったと思う。再び赤面した顔を見られずにすんだから。
 どうしたらいいんだと焦っていれば更に強く抱きつかれ、喉はからからになる。動揺を悟られたくなくて、そっと頭を撫でてやった。イルカは何を考えているのか、黙ったままだ。どうしよう、どうしたらとばくばくと鼓動を刻みそうになる心臓に危機感を覚える。そんなカカシの動揺など知らぬげで、イルカはまた唐突に体を離すと、すっきりとした顔をして、風呂に行こうと誘ってきた。
 一瞬、情けない表情になりそうになるのをなんとか堪えた。
 いくら大浴場とはいえ、風呂に行こうだなどと、イルカは無防備すぎる。カカシがイルカの裸を見て劣情を起こす可能性については何も考えないのだろうか。
 イルカが初めて同性で付きあう人間だから、こんなところで不便を感じるとは考えたこともなかった。普通なら平気で入れる風呂が、好きな相手と一緒となるとそれは意味合いを変える。
 イルカは、なんとも思わないのだろうか?



 断る理由もなく、なによりこの宿の風呂が楽しみだったのはカカシもだから、二人で大浴場に向かった。
 風呂場には、夕食前に浸かろうという人々が結構いて安堵する。心の準備もなくイルカと風呂場で二人きりになるなんて、そんな無茶なことはできない。贅をこらした風呂場をたいして鑑賞することもなく、とにかくなるべくイルカから目を逸らして、けれど不自然にならない距離で浴衣を脱いだ。男同士なのだから当然だがイルカはなんのてらいもなく服を脱ぎ去った。もちろんカカシの視界の端にはイルカがいて、裸体が、見えるのだ。
 カカシは忍の一文字でまるで苦行のようにおのれを戒める。平常心平常心と心の中で半泣きで唱える。
 思えば、イルカの裸なんて、あの事件の夜に見たきりだ。それからいろいろとイルカに仕掛けてしまうことはあったが、イルカの肌の熱を全身で感じたのはあの時だけだ。
「センセー、露天」
 とイルカに無邪気に手を引かれて露天の端に陣取る。そこにも何人かの客がいて、まずは助かったと思ってしまうあたり情けない。
 イルカは小さい子供のように足をばたつかせながら笑顔ではしゃいでいる。
 本当はその笑顔をずっと、食い入るように見ていたいくらいなのだが、いかせん場所が場所だけに、少し醒めた受け答えでつい視線を景色に向けてしまう。今更ながら、おのれの浅はかさを呪いたくなる。平気だと、思っていた。甘かった。自分で思う以上にイルカを意識してしまう。当然ではないか。イルカのことが好きで好きでたまらないのだから。やっと、思いを受け入れて貰えたのだから。
 どのタイミングで先に上がろうかと考えていたが、ついイルカにお湯をかけてはしゃいでしまえば、そのせいで狭い壺湯で二人きりという状況においやられてしまった。
 そこから去るタイミングも逃してしまい、狭い中でとにかくなるべくイルカから離れて、大人の対応と心してイルカに笑いかけたが、イルカに手を握られてしまった。
 くらりと眩暈がした。
 重ねられた手が、熱を持つ。
 ああ、今度こそおしまいだ、と硬直する。
 風呂の中で上気した頬をして笑いかけてくるイルカはカカシの目に壮絶に色っぽく映った。あそこに熱が集まりそうになるのを必死で、難しい術を頭のなかで反芻してなだめる。だがそれでも否応なしにそこに意識がいってしまい、ゆるくたちあがる気配を感じて、カカシはざばりと風呂からでて、さりげなく前をタオルで隠した。
「センセー?」
 イルカは首をかしげる。そこに、タイミングよく団体の客がやってきた。イルカの気が逸れた瞬間がいまだ、と思った。
「先に部屋で休んでいるから、イルカはもう少しゆっくりしてくるといい」
「え、じゃあ俺も」
「なに言ってんの。俺に気遣うことないって。明日また一緒に入ろう」
 頼む、頼むから今は一人で部屋に帰らせてくれと笑顔の向こうで必死で念じれば、イルカはわかったと素直に頷いた。
 そそくさと脱衣所に戻ったカカシは逃げるようにして大浴場を後にした。



 とにかく落ち着け俺! 落ち着け! と部屋の座布団に座ってぶつぶつと唱えていれば、夕の膳の準備に来ましたと女将さんが自らやってきた。
「あ、はい、お願いします」
 慌てて立ちあがる。てきぱきとテーブルと座椅子を整えてお膳を運んだ女将さんは窓際の椅子に座っていたカカシの前にそっとお茶を用意して、意味深に視線を向けてきた。
「なんですか?」
 いたたまれなくてカカシの方から問いかけてしまえば、女将は笑顔になった。
「お布団、ひと組でよろしいですよね?」
 カカシは椅子からずり落ちそうになった。
「いえ、二組、それも少し離して敷いてください」
「あらあら、それはないでしょうはたけ様」
 女将はあからさまに不満顔だ。カカシの傍らに膝をつくと、探るような目をする。
「お連れのかわいらしいうみのさん。大切な方なんでしょう。恋人でいらっしゃるんでしょう?」
「それは、そう、です……」
 女将は同性同士に全く偏見はないようで、ずばり言ってくれる。
「いえね、必ずなにかしろと言ってるわけではないんですよ。でも恋人同士なら同じ布団で仲良く寝られればいいじゃあありませんか」
「いえ、その、なんといいますか」
 カカシの当惑など意に介さずに、女将はずいと前にでる。
「はたけ様、好きな人を抱きしめて眠るなんて、天にも昇りそうな幸せな心地になりますよ。お互いが幸せな気持ちになります」
 女将の目は真剣だった。
 この腕の中にイルカのぬくもりを感じて眠るなんて、まるで夢のようだ。
 幸せな、それはもう幸せな、死んでもいいような気持ちになるだろう。ふっとカカシの口元には笑みが浮かんでいた。
「そうですね、幸せだと思います」
「でしょう。お布団はひと組でよろしいですね?」
 女将は有無を言わせない口調で言った。



 内風呂からは鼻歌が聞こえてくる。
 手酌で煽るように酒を飲んでも一向に酔いは回らない。カカシはお膳の前に横になった。
 結局布団は二組敷いて貰った。女将は不満顔だったが、イルカをひとつの布団で眠る勇気がでない。
 イルカに何かしでかしてしまいそうで、怖い。
 そう、イルカが怖いのだ。イルカのことを誰よりも大切に思う、と同時に、誰よりも怖い。
「イルカ……」
 そっと愛しい名を紡いで、カカシは目を閉じた。