イルカの思惑 A







 居心地のいい高台に思いがけず長居してしまい、気づけばかすかに空に残照があるのみで日は沈んでいた。
 最後に大きく伸びをしてすっきりと晴れ渡った気分で部屋に戻れば、窓際に立つカカシの姿に一瞬ぽかんとなる。すっきりと浴衣を着こなしたカカシがゆっくりと振りかえる。イルカのことをみとめると、すべてさらされた端正な顔を柔らかくほころばせた。
「おかえりイルカ」
「あ、はい……ただいま」
 反射的に返したが、イルカは慌てて部屋に飛び込んだ。
「カ、カカシセンセー! いつ? いつここに?」
 慌てるイルカと違ってカカシはあくまでもゆったりとしている。袖を掴むイルカをいなして座る。
「ん〜。2時間くらい前かな? 汗かいてたから先に内湯つかわせてもらった。イルカは? 昼にはついてたのか?」
「昼は過ぎてた。ここで女将さんと話してそれから高台のほうにずっといたんだ」
「そっか。よかった。女将さん、楽しいひとだろ」
「うん。すっげぇいいひとだよね。なんか、かあちゃんみたいなひとだなって。あ、失礼かな」
「そんなことないさ。直接言ってやったら女将さん喜ぶよ」
 イルカと受け答えしながら、カカシは手際よくお茶を淹れてくれた。
 任務をこなしてきたカカシを気遣うべきは自分のほうなのにとイルカは焦る。そして“お疲れ様でした”のひとことも言っていないことに思い至る。
「センセー、任務、お疲れ様でした」
「ああ。うん。ありがと」
 うすく微笑んだカカシは少し痩せただろうか。そういえばここひとつきくらいはずっと任務続きだった。顔の線がシャープになった気がする。精悍さを増したような気がする。その少し疲れた風情がカカシの男ぶりをまた上げているようだ。風呂につかって着こなした浴衣がとても似合っていた。
 まじまじと視線を注げば、カカシが顎のあたりを撫でて照れたように笑う。
「どうしたイルカ。俺がいい男すぎて見惚れたか?」
 カカシはあくまでも茶化す気持ちで言ったのだろうが、イルカは素直に頷いていた。
「やっぱセンセーっておっとこまえだなあって思う」
 真面目に告げれば、カカシは固まる。そして次の瞬間には頬を赤らめて顔を逸らした。
「ばっか! 大人をからかうな」
「あれ? センセー照れてんの?」
 イルカが首をかしげればカカシはますます顔を横に向ける。常にはないカカシの態度にイルカの気持ちもふわりと高揚する。
「俺だってもう19なんだから子供じゃないでーす」
「19なんて全然子供。それをいうなら俺は今年三十路! おっさんだから!」
 威張っていうようなことではないがカカシはなぜか威張る。イルカは思わず吹きだしていた。
「自分でおっさんとかいうなよな〜」
 イルカは笑いながらカカシの背後にまわると肩を揉み始めた。
「じゃあおっさんのセンセーを労ってあげましょう」
「海野中忍、しっかり頼む」
「了解ですはたけ上忍」
 二人で笑いあうことが出会った頃に戻ったようだった。
 カカシの体は細身にみえて無駄のないしなやかな筋肉がほどよくついている。忍として鍛錬を怠っていない体をしている。なれない手つきで肩を揉んでいたが、広い背中にイルカは思わず抱きついていた。
「イルカ?」
「センセーありがと」
 ぎゅうとしがみついてカカシの肩に顔をすり寄せる。
「どうしたイルカ?」
 カカシが手をのばして頭に触れてくる。大きな手が、優しく、頭を撫でてくれる。
 もしもカカシと前に進みことを拒んでいたなら、この手で撫でてもらうことはなかった。こんなにも満たされた気持ちになることはなかった。
 カカシと出会った頃に戻れたらと何度も思った。だがひとの気持ちは移りゆく。ひとつところに留まることはできない。わかっていたが、それでも昔に戻れたならと思った。
 踏み出す勇気が、なかった。
 カカシの暴走気味な態度を憎んだ時もあったが、今思えば、あれくらいの荒療治があったから臆病なおのれを前に押し出すことができたのかもしれない。
 ありがとうと言葉にすることは簡単だ。だがそれだけでは思っていることのかけらも伝わらない気がする。
 大事にされることを引け目なく受け取れるようになりたい。
「センセー。夕飯の前におっきい風呂いこうよ」
 カカシから体を離して笑いかける。イルカの中を探るような視線を一瞬よこしたカカシだが、重ねて笑いかければ、頷いて立ちあがった。



 大浴場は旅館の最上階に設置されていた。
 照明を落とし気味にした木造の天井からは檜の香が漂い、御影石の床は美しく磨き込まれている。露天風呂は一枚岩をくりぬいて洞のようになっているものと、四阿ふうにして眼下に広がる緑と星空を臨めるような開放的なものとある。独り占めできる壺湯もいくつか設置され、まるで庭園のように優雅に整えられていた。
 別の階にもレジャー施設のようなさまざまなタイプの風呂やらサウナが設置されているという。だがまずは大浴場でゆったり浸かるのがいいだろうと来てみれば、すでにそれなりに人々が集まっていたが、窮屈に思うことはない規模だった。
「センセー、センセー、露天、露天いこうよ」
 大急ぎで体を洗ったイルカはカカシの手を引かんばかりにして飛び出す。
 一枚岩の露天にはひとが若干多めにいたためもう一方の露天から景色を眺める。まだ日が落ちて間もない。ちょうど薄闇に浮かび上がる景色がライトアップと相まって幻想的な雰囲気をかもしだしていた。
「すっげぇ。きれいだよなあ。なあ、カカシセンセー」
「気に入ったみたいでなにより」
 カカシを振りかえれば、満足げに笑っている。イルカは大好きな温泉、しかも最上級のレベルといってもいいような施設にテンションが上がりっぱなしだった。嬉しくて、楽しくて、笑顔で表情が固まってしまいそうなくらいだ。
「ほんっとにありがとう。こんないいとこに来れるなんて夢みたいだ」
「またいつでも来れるでしょ」
 カカシは小さく笑って遠く景色に目を向ける。
 その、引きしまった横顔。
 鑑賞に堪えうるカカシの姿にイルカはため息が漏らしていた。
「俺もセンセーくらいになったらそんなふうになれるのかなあ」
 カカシが顔を向けてくるが首をかしげた。
「そんなふうって」
「センセーみたいにかっこいい大人になれるのかなあって」
 しみじみと口にしたイルカの顔にカカシはお湯をかけた。
「ちょっ! センセー!」
「な〜に言ってんだか。俺が情けない大人だってことはイルカが一番知っているでしょーが」
「そんなこと……」
 だがカカシの拗ねたような顔に、確かにカカシの情けない姿をたくさん見たなあと思い返す。そして思わずにまりと顔をくずせば、カカシにまたお湯をかけられた。
 イルカもふざけてお湯をかけてはしゃいでいればそのうちに貫禄のある老人に活を入れられ、頭を下げつつ壺湯に逃げることになった。
 それなりに体格のいい男二人が入っても十分に余裕のある壺湯から空を仰ぐ。ライトアップは下に向けて設置されており、星の光を邪魔することはなかった。
 高く遠く瞬く星に、しばし目を奪われる。
「イルカ」
 名を呼ばれカカシを見れば、カカシは口元には微笑を刻みながらも真面目な顔でイルカのことを見つめていた。
「イルカが喜んでくれてよかった。それだけで、俺はすっごく嬉しい」
 そういうカカシは本当に幸せそうな満ち足りた顔をしていた。カカシにそんな表情をさせることができるのが自分なのだと思うと、イルカはくすぐったいような気持ちになる。
「俺も、センセーが嬉しいなら嬉しいよ」
「そっか。じゃあ俺たちお互いが嬉しいと嬉しいんだ」
「そういうこと」
 そっとイルカは湯船のなかで手を伸ばす。カカシの手の甲に手のひらを重ねてみた。ぬるめの湯なのに、カカシに触れた手のひらだけが、熱を持った。



 その後団体で人々がなだれ込み、壺湯にゆっくり使っている場合ではなくなった。
 長っ尻のイルカはいつまででも入っていられるが、カカシは先に部屋にいっているといってひと足先に戻ってしまった。
 イルカもそう時間をおかずに戻るつもりだったが、最初に怒られた老人に呼び止められ湯船の中で話し込む羽目になった。老人は昔忍者だったという。歴戦の強者のようなイルカの傷を褒め称え、過去の戦歴を語り出す。イルカの知らない過去はそれなりに興味深くつい長居してしまった。カカシにかなり遅れて部屋に戻れば、そこにはご馳走のお膳が用意されていた。
 うわあと思わず感嘆の声が漏れる。旅館にきてから何度になるかわからない感動だった。
 大きなお膳には色とりどりの小鉢が並び、海の幸山の幸が乗っている。大きな舟盛りの肴は艶があり、鍋には無農薬野菜と海鮮の鍋となっていた。
 座布団に座ると、カカシがビール瓶を手に取る。木の葉の里は18で成人扱いとなるため酒を飲むことに支障はなかった。カカシに先に注がせるのが申し訳ないとためらいをみせれば、誕生日だからと押し切られた。
 互いのグラスに注ぎ、誕生日おめでとうとカカシに笑いかけられた瞬間、不覚にもイルカの涙腺はじわりと緩む。それをなんとか笑顔で振り払い、ありがとうございますとわざとらしいくらいに声を張り上げた。



 料理をあらかた食べ終わり酒もほどよく回った頃あいにもなれば、イルカは気持ちのほうもかなりほぐれていた。向かい側にいるカカシはイルカ以上に酒を飲んでいるのに、顔色ひとつ変わらずに、イルカの話をきいて、混ぜ返してと余裕だ。それが少し気にくわなくて、イルカはカカシの横ににじり寄った。
「センセ〜」
 カカシの腕にぎゅうとしがみついて、間近から顔をのぞきこんでみた。カカシの白い顔はほんのりと染まっているが酩酊した様子はない。
「センセーお酒強いね。あ、昔からそうだったっけ。そういえばセンセーにおんぶされ帰ったことあったよね」
「ああ。そんなこともあったな」
「おんぶ〜おんぶ〜」
 イルカはカカシの背後から抱きついた。
「こら、イルカ。酔っぱらい」
 カカシがさりげなくだがイルカの体をのかそうとするから、イルカはムキになってしがみつく。カカシの首筋からは石鹸の匂いがした。思わずくんくんとかげば、カカシがかすかな声をあげた。
「こら! イルカ!」
「あ〜そういえばあの時も匂いかいだっけ……」
 そうだ。あの事件が起こる前の夜だった。あの夜、まさかカカシと恋人になるだなどと、想像の範疇外だった。
「イルカ?」
 くすくすと笑い出したイルカをいぶかるようにカカシが名を呼ぶ。
「だってさあ、先のことは本当になにがあるかわからないなあって思うとなんかおかしくて。だって俺とセンセーが、恋人だよ? 恋人! そんなのありえないっつーのって感じというかまったくこれっぽっちも考えられないことだったわけじゃん。それがさあ、ねえ!」
「う、まあ、そうだな。確かにイルカとこうしていられるなんて夢みたいだからな」
 至極真面目な声でカカシが夢みたいだなどというから、イルカは噴出してしまった。
「なんだよー大袈裟だなあ〜」
「大袈裟じゃない。少なくても俺にとってはいまだに夢かもしれないって現実なんだ」
 振り向いたカカシと、間近で目が合う。
 あ、とかすかな声をあげたのは同時だったろうか。
 一瞬、時が止まったような気がした。
 イルカはカカシから身を引くとすっくと立ち上がった。
「俺、風呂入ってくる」
 イルカは、そのまま逃げるような気持ちで内風呂に向かった。