カカシの思惑 @







 温泉に行かないかとイルカを誘った時、なにげない笑顔を装いつつも心臓は激しく脈打っていた。
 一緒に行って欲しい、でも断られるかもしれない。断られた時落ち込んだ様子を見せては駄目だ。イルカに負担をかけたくない。
 そんなことを一瞬の間に考えた。
 イルカはカカシの後ろ向きな気持ちに反してさりげなく手をとると、明るい笑顔を見せてくれた。
 その瞬間、全身が脱力するくらいの安堵を覚えた。
 イルカが笑ってくれるだけで胸が締め付けられるような気持ちになる。泣きたいような気持ちがせり上がる。
 好きだと何万回言っても足りない。言葉じゃなにも伝わらない気がする。



 イルカと出会って2年経つ。
 火影の命を受けてのアカデミーの臨時教師と生徒として出会い、イルカのことを好きになって、もう2年。短いのか長いのかよくわからない2年だが、再会してからの半年ほどは辛くて辛くて、仕方なかった。それこそ正気を失うほどに辛い時期があった。
 イルカを追いつめるだけの自分がほとほと嫌になり、もうやめようと決めた。
 イルカが好きで幸せになって欲しいと願いながら、自分の欲望をぶつけてしまう。どうしようもない悪循環から抜け出たいと思い、昔なじみの女にすがった。
 カカシが本当の気持ちをあまさず伝えれば、愛する者を失っている女は、傷跡を舐め合って生きていくのもいいかもしれないとうすく笑ったのだ。
 きっとこの先ずっとイルカ以外愛することはできない。イルカを思って生きていく。イルカは愛する誰かを見つけて幸せをつかむだろう。だがそう思うそばから、自分ではない誰かがイルカの傍らで笑っているなんて、想像するだけで背筋が震えるのがわかる。もしもそんな光景を目の当たりにしたなら、正気でいられるだろうか。
 きっと無理だ。なにをしでかすかわからない狂気を知っている。もうイルカとは会わないほうがいい。でもイルカの姿を見ずにいられるのだろうか。
 煮詰まった思いに終止符をうってくれたのは、イルカだった。
 逃げよう逃げようとしていたカカシのことを真っ直ぐに見返して、思いを受け取ってくれたのだ。
 イルカのしなやかな体を抱きしめて、叫びだしたいような歓喜と、そして怖さも感じた。
 手に入れた宝物。失うことなく、大切に、大切にして、ともに生きていけるのだろうか、と。
 だから付き合った途端、イルカとどうやって接すればいいのかわからなくなった。
 火影の妨害にあったりでしばらく間があいたことは考えるのにいい期間だった。
 イルカは受け入れてくれたが、イルカにしでかしたことは人として最低なことだ。普通なら、そんな人間を許すことなどできないだろう。正気を失うような心持ちだった頃にも、イルカにずいぶんとひどいことをした。中忍の合宿所でのこともイルカに指摘されたように私情が入ってなかったとは言い切れない。
 淡々と任務をこなしながら思い悩んでいた時に、暗部としての任務終了報告に向かった火影宅で引き留められた。
「カカシよ、わしが暗部を選抜する際に条件としていることはなんだと思う」
 いきなりの質問だった。
 一定以上の実力があること、なんて当然の答えではないだろう。皺深い顔の中でもよく光る目に見つめられ、火影のいいたいことがなんとなくわかるカカシだった。
「もしイルカに暗部として遜色ない技量があっても、火影さまは暗部に推薦することはないでしょうね」
 そう、イルカは健やかだ。どんなに傷ついても真っ直ぐにおのれを立て直せるだけのしなやかさを持っている。そこに歪んだものはかけらもない。引き比べてカカシは。
「おぬしの狂気が再びイルカを傷つけぬか、本当に心配なのじゃよ」
 火影は嘆息を落とす。
 暗部は場合によってはずいぶんと汚い任務をこなすことがある。仕方ないと判断されれば忍者ではない者や弱い者たちも容赦はく葬らなければならない。そんな時、狂気を内包していないとこなすことなどできないだろう。狂気を飼っている人間でなければ。
「火影さま、俺ももう三十男ですよ。絶対にイルカを傷つけたりしません。狂気を、飼い慣らしてみせますよ」
 きっぱりと告げれば、火影はしばしの間カカシのことを値踏みするように見ていたが、もう一度ため息を落とす。それは先ほどとは違う温かみのあるものだった。
「イルカの顔を見ていくがいい。難しい任務で疲れたのかぐっすり眠っておるが、くれぐれも起こさぬようにな」
 火影の許可を得てしのびこんだ六畳間の真ん中で、イルカは安らかに眠っていた。羽毛布団がずれているからそっと直してやる。少し疲労しているような様子もみえるが、静かに、深く眠っていた。
 イルカの常より幼い寝顔を見ているだけでカカシの気持ちもふにゃりと柔らかくなる。意識せずに笑顔を作っている。任務で少しばかり尖っていた心が平穏を取り戻す。
 イルカは気の強さが表にでたような少しきつめの顔立ちをしているが、笑うと本当に優しい顔になる。見ている方がほっとするような、手放しの笑顔を持っている。その無垢な笑顔に最初に捕まったのかもしれない。それからイルカの人となりを知っていくうちに裏表のない真っ直ぐな心根が、カカシが忘れていたものを思いださせてくれた。傷つくことを知っているのに、傷つけたことの怖さも知っているのに、それでも、恐れずに人を理解したいとぶつかっていくイルカがまぶしく思えた。
 そっと、細心の注意を払ってイルカの額に触れる。そのまま頬を包む。さらりとしても温かい。カカシの体もそれだけでぬくまっていくようだ。
 ああ、と絞り出すような声があがりそうになる。
 イルカと思いが重なったあの日、離さない、と言った。だがそうではない。
 離せない。もう絶対にこの存在を離すことなんてできはしない。
「好きだよ、イルカ。大好きだよ……」
 そっと呟いて、もう一度額に触れる。チャクラを流し込んで、いい夢を、と願った。



 晴れて火影からのお墨付きをもらった。
 くどくどと説教されたがそれは火影の愛情ゆえだ。
 イルカは、火影さまにはまいるよなぁと口を尖らせていたが、嬉しそうでもあった。
 イルカが隣にいる、それだけでカカシは顔がだらしなく緩みそうになるのを堪えなければならなかった。つくづく顔の半分以上が隠れていてよかったと思う。
 なるべく自然体でイルカと接しようと考えたカカシだが、二人の付き合いのことは隠した方がいいのだろうか、いやでも往来での告白を見た連中からいつの間にか二人のことは知れ渡り始めている。カカシも上忍仲間から酔狂な、と呆れた顔で言われたこともある。
 スリーマンセルの子供たちからさえ何か聞きたそうな空気を感じる。付き合っていると言っていいものだろうか。イルカのことを知る三人に言うことをもしかしたらイルカは嫌がるかもしれない。
 またもやぐるぐると思考の渦に陥っていたカカシを、イルカはあっさりと救い出してくれた。偶然会った一楽。ナルトからの問いかけに、イルカは堂々と告げてくれた。付き合っている、と。恋人同士だとも言ってくれた。
 夢見心地の帰り道に触れた手に思わず頬を寄せていた。
 守りたい。もう絶対にイルカのことを傷つけたりしない。ひたすらに大事にしたい。
 だからカカシはイルカの意を汲むことに精を出すことにした。
 負けん気の強いイルカは、付き合っていることで回りから特異な目で見られることをなによりも嫌がった。カカシが私情をはさまずに公私の区別をつけることを望んでいた。
 上忍、中忍として接する時は厳しすぎるくらいに接して、そうはいっても時にむくれてしまうイルカを怒らせないように接する。機嫌を直したイルカが明るく笑うと、それだけでカカシも満たされた。
 イルカと別れがたい夜もあったが、まだ始まったばかりなのだから、と唇に触れることさえしなかった。イルカが許しているような気配を感じることはあったが、触れる勇気はまだだせずにいた。イルカと付き合っている、共に歩んでいるのだと思うだけで、片思いしていた頃にあんなにも募った欲望がなりをひそめてはいたが、熱い体を感じてしまったらどうなるかという懸念はぬぐい去れずにいたからだ。
 自分のことはどうでもいい。ただ、イルカの望むことならなんだってかなえてやりたい。誕生日が近づくにつれて考えたのは、イルカが大好きな温泉にでもゆっくりと連れて行ってやろうということだ。
 温泉で一泊だなどとイルカは警戒するかもしれないと考えないでもなかったが、夜は別の部屋で寝ればいいのだと思い、昔の任務で見知っている一流の旅館に任務帰りに頭を下げに行った。
「大切な人の誕生祝いなんです。どうしても、こちらに連れてきてやりたいんです。どんな部屋でもかまいません。なんとか一部屋都合つけていただけないでしょうか?」
 裏口からおとないを入れ、通された部屋で、深く頭を下げた。人気のある旅館で、へたをすると一年先まで予約で埋まる部屋もある。無理を承知での申し出だ。簡単に引き下がるつもりはないが、迷惑をかけるようなごり押しをするつもりはなかった。
「承知いたしました」
 あが女将はあっさりとうなずいた。最初何を言われたのかわからずに、カカシは数秒おいて、やっと顔をあげる始末だった。
「あの、今、承知、と言われましたか?」
 女将は心得たように優しく笑っていた。
「どうぞ、お顔をあげてください。大恩あるはたけ様からのお頼みです。嬉しゅうございます。やっとうちの旅館のことを思いだしてくださって光栄です」
 あっけないほどの展開に、カカシのほうが呆然となる。だがじわじわと沸いてくる嬉しさに、顔がほころんだ。そんなカカシに女将は声をたてて笑った。
「はたけ様もそんな顔なさるんですねえ。連れてこられる方、楽しみにしておりますよ」



 約束の当日、本当は一緒に里からでかけるはずだった。だが長引いた任務で現地集合となり、カカシは落胆しつつも帰路を急ぎ、陽射しは傾き始めたが夕方になる前には到着することができた。
 忍装束の者た表玄関から入るのも無粋かと、裏から顔をだせば、快く迎えられ、お連れの方は部屋に入られてます、と案内された。
 係の者のあとをついて歩きながら、徐々に高鳴っていく気持ちを意識した。
 イルカと二人きりで過ごせるなんて、まるで夢のようだ。
 夢なら覚めて欲しくないと真剣に願う。
 離れに向かう渡り廊下でなにげなくふと顔を上げた先の高台に、イルカがいた。鍛えぬかれた忍の目でなくともイルカのことならすぐにわかる。
 立ち止まってイルカを見た。
 背筋を伸ばして、昂然と顔を上げ、風に髪をあおられながら前を向くイルカ。
 とてもまぶしく得難い存在として、カカシの中に染み入るように刻まれた。