イルカの思惑 @







 火の国が国としての体裁を整え始めるよりも前から、はるか昔からこんこんとわき出ていた温泉を有する火の国温泉郷。
 その一帯は木の葉の里よりも古い歴史を持っていた。
 一般の人々だけではなく忍者たちも体を休めにくることが多く、温泉街は火の国でいちにを争う繁華な地域としていつもにぎわっていた。
 イルカは約束の日にそこに一人でやって来た。
 カカシから急遽連絡が入ったのは昨日のことだ。任務が長引いたため明日旅館で落ち合うことになった、と。任務なら仕方ないことなのに、カカシはきっと大急ぎで戻ってくるのだろう。任務で疲れているだろうに走らせることを申しわけなく思うが、それほどまでに思われていることの嬉しさも大きい。
 だからイルカは身軽にリュックひとつ背負い、シャツにカーゴパンツの出で立ちではりきって出発したのだ。
 昼食をとり、温泉郷を統括する建物についた。カカシからの指示でそこに顔を出せば、旅館からの使いのものだという老人がいた。老人ではあるがよく日に焼けた顔の色つやはよく、見るからに健康そうだった。
 旅館からはひと組の客に一人の案内人がつき、山の中腹にある旅館までの足を世話するという。 駕籠を頼むことも可能だと言われたが、イルカとしては景色をしっかり目にして旅館まで歩いていくことを希望した。荷物は別に預けることもできるといわれたが、全く苦にならない程度のものだからそのまま歩くことにした。
 ゆっくりと景色を見ながらで約1時間ほどの道のりだが、山道だから歩くことを忌避する客も多いという。案内に立つ老人は孫くらいの若い人と歩くのは好きなんですと言って、皺深い顔をほころばせた。
 山道を登る前にこの山一帯が旅館の土地であると説明され、イルカは驚きに目を見開く。
 とてもいいところだとカカシは言ったが、今更ながらイルカの考えていた「いい旅館」のレベルを超えているようだ。
 どうぞ、と老爺に促されて歩き始めたイルカだが、笑顔はかすかにひきつっていた。


 5月も終わりともなれば緑はしたたるような色を見せ、吹く風からは若々しい新緑の香が濃く漂う。そろそろ人を刺すような虫たちも出始めるような時期だが、山一帯に生えている木々は特殊な成分を分泌して、人に害をなす虫を近寄らせないという。
 火の国の歴史のこと、自然のこと。話を聞きながら、老爺の博識ぶりに感心して歩く。登山道としてほどよく整えられた道は広く、行くもの帰るものがストレスなくすれ違える。
 途中、お寺のどっしりとした構えの山門のようなものが見えると、そこで休憩しましょうと言われた。急ぐ道でもなし、イルカは同意して庭のほうに導かれた。
 そこには鏡のように澄んだ水を湛えた池があり、優雅に日よけの赤い傘をたてたそこここで人々が休んでいた。
 イルカを座らせて、案内人はお盆に冷たいお茶と水菓子を運んできてくれた。いくら客とはいえ老人と使わせることに罪悪感が沸くイルカはちぢこまって礼を口にした。
 お気になさらずどんと構えてくださいと言われてもそうできるはずもなく、とりあえず老爺に共に休んでもらって、思い立ったことを聞いてみた。
「あの、センセー、……はたけ上忍は、こちらの宿に泊まったことがあるんですか?」
「ええ、ございますよ。とはいいましてもお仕事絡みでしたがね。5年ちかくになりますかねえ」
「そうですか。じゃあもしかして、予約、入りこませてもらったんじゃないですか?」
 聞くまでもなくそうなのだと思う。案内の建物に入った時点で、この旅館へ向かう客たちがほとんどだった。どう考えてもひとつきを切った時点での予約は普通なら無理だろう。
 老爺は相好を崩すと、お茶を一口すすった。
「ご明察。その通りですよ。ですが気になさることはない。はたけ様には仕事絡みとはいえ大層世話になりました。こんなことで恩が返せるとは思いませんが、少しはお役にたてたらと思いますよ」
「あの、案内人さんは、旅館の従業員ってだけの方ではないんですか?」
「女将の父親でございますよ。今は女将に雇われている従業員でもあります」
 煙に巻くような答えではあったが、わざわざ旅館の経営者の一族が向かえに来てくれるなど、恐れ多いくらいのVIP待遇だ。改めてカカシは凄い人なのだなあと思うと、どうしてか一抹の寂しさが胸をかすめた。



 辿り着いた宿のロビーでイルカの口はぽかんと開いた。
 確かに宿の中に入ったはずなのに、幹の太い木が、植わっている。小鳥がちちちち、とかわいらしく鳴いている。天上を見れば明るい空が壁全体に広がり、本物の空かと見まがうほどだ。フロントの脇にはせせらぎが清らかな音で流れ、小魚が跳ねる。床は鏡のように磨き込まれ、ちりひとつない。
「うみのさん、そんなに口を開けては顎がはずれてしまいますよ」
 柔らかな声に顔をむければ、イルカの母親くらいの年齢と思われる女性が品良く微笑んでいた。きれいにまとめ上げられた黒髪と、涼やかな顔立ち。着物の着こなしも立ち姿も美しい。
「遠いところ、よくいらしてくださいました」
 深々と頭を下げられて、イルカは慌てて同じように頭を下げる。
「い、いえ、こちらこそ! 泊めてもらってありがとうございます!」
 思わず大きな声がでていた。
 女将は鈴が鳴るような声で笑うと、お部屋にご案内しますと歩き出す。イルカは案内人の老爺にも深々と頭を下げて、女将に続いた。
 女将は『うみのさん』と言った。荷物をお持ちしますとも言われなかった。
 休憩をとった四阿で老爺に『うみの様』はやめてほしいと言ったのだ。あまり気を遣わないでほしいとも頼んだ。客とはいえ、若造の自分はそんな身分の者ではないと。お客様といわれることは仕方ないにしても、だ。
 老爺はどのような方法でかそれを旅館にまで伝えてくれたのだろう。
 一流というのはこういうことを言うのだなと感心しつつ、イルカは自分がまだまだそんな人間ではないことはよくわかるから、ここにいることに場違いな気持ちが沸いてしまう。
 ものすごくいい旅館だ。中忍になったばかりで、なにもなしていない自分がこんなところに泊まる資格はあるのだろうか。
 カカシに費用はいくらかでも持つと言ったが、誕生日だから、全部自分が持つと頷いてくれなかった。誕生日で特別だと言われればあまり強くでることもできなかったが、もしいくらかでも払うことになっていたら、イルカにとってはかなりの痛手となるような額だったろう。
 普段も、年が上だし俺のほうが稼ぎがいいからと言って、外で食事をする時などイルカが払うようなことはほとんどない。中忍として給金を貰い始めた身としてはさすがに申し訳なくて、いつだったか任務に向かうカカシにおにぎりを作っていったことがある。不格好な丸いかたまりを、カカシはものすごく喜んでくれた。
 つらつらと思い返せば、どうしてカカシはイルカのことをこんなにも好きでいてくれるのだろうと疑問が沸く。
 自分にはそれほどの価値があるだろうか。
 カカシはカカシ自身のことを積極的に話しはしないが、イルカが訊けば答えてはくれる。カカシは6才で中忍になり、12で上忍となり暗部にも所属。いくつものいくさ場を駆けめぐり、常に前線で生きてきた。
 そのあたりのことはカカシに習っていた頃から知っていたが、カカシの父親が高名な白い牙で、上忍師が四代目と聞けばさすがのイルカも開いた口が塞がらなかった。
 正真正銘のエリートだ。
 引き比べて自分は。
 そんなふうに卑屈に考えてしまう自分がいることをイルカは意識した。



 連れられてきた部屋は5階建ての建物の3階から渡り廊下でつながれた離れの建物だった。
 本館よりも古びた建物ではあるが磨き込まれた木の色合いが古さからの重厚さを感じさせ空気も違う。自然と背筋が伸びるような心地いい緊張感が建物自体にある。どこかでかすかに焚かれた香は涼やかなかおりを漂わせていた。
「こちらでございます」
 笑顔の女将の白い手が開けはなった部屋は正面に丸く切り取られた障子窓があり、そこから切り絵のように中庭の景色が見える。石が野手溢れる趣向で配置され、青竹が健やかに伸び、鹿脅しが気持ちよく高く鳴り響く。
 十畳ほどはある部屋だ。隣の八畳間からは内庭にある露天風呂に出られるようになっている。大人二人が広々と入れそうな樽風呂にはまんまんと湯が満ちて、贅沢に湯を溢れさせている。
 言葉もなく、イルカは部屋に見入る。床の間の大きな壺も掛け軸も見るからに高級そうで、くらくらしそうだ。
「うみのさん、また、お口があいておりますよ」
 女将はお茶の用意をしつつ微笑んでいる。
 立っているのも落ち着かなく、用意された座布団に腰をおろしたがさらに落ち着かないことこの上ない。
 漆塗りのテーブルの上に濃い緑茶と、水ようかんが置かれた。
「どうぞ。手前どもで作っている水ようかんでございます。お口に合うとよろしいのですけど」
 栗が入っているようかんは水みずしく張りがある。きっと極上においしいのだろう。だがイルカは、今の自分が食べたら味がわからないような気がして、思わず女将に顔を向けた。
「あの、女将さん」
「はい」
「あの……」
 なにが言いたいのかわからずに口をつぐむイルカだが、あまりにも場違いなところでおのれの心になだれ込んできたのは恥じ入る気持ちだった。
 カカシにはここの泊まる資格がある。だが自分はどうだろう。そう思うと、いたたまれないのだ。
 ようかんに手もつけず考え込むイルカを女将はじっと待ってくれている。
「あの、俺、温泉大好きなんです。だから里でもよくスーパー銭湯に行ったり、家で温泉の元を入れて楽しんでます」
「あら。でしたらお土産に手前どもの温泉の元をさしあげますね。疲労回復、美肌効果でお客様に大変喜ばれております」
 女将のほがらかな声に、イルカはぎこちないながらも微笑むことができた。
「ありがとうございます。今の俺には、それで、充分なんです。俺にはまだ、こんなにすごいところに泊まる資格、ないんです」
「資格、でございますか」
 不思議そうな女将にイルカは頷いた。
「はたけ上忍が、連れてきてくれたから、泊まることができるんです。俺にはもったいないです」
 楽しみたいのにうち沈む心。カカシが来るまでに立て直すことができるだろうかと、心配になる。
 イルカのことをいつだって気遣うカカシは、沈むイルカを見ればごめんと謝って、すぐにでも宿を引き払うと言いそうだ。
「ねえうみのさん」
 女将の凛とした声に顔をあげた。立ち上がった女将は窓を開け放つ。
「はたけ様はたしかに手前共の恩人ではありますが、こちらも商売。頼まれても嫌ということはありますよ」
 さわやかな風が吹き抜けて、一瞬、イルカは目を細めた。
「はたけ様がどうしてもお願いしたいとおっしゃられたのはこのたびが初めてです。任務のお帰りだったと思いますがわざわざいらして、そりゃあまあ必死なご様子で、ひと部屋都合して欲しいとおっしゃいました。大切な人を、連れてきたいから、と。本当に誰よりも大切な人だと静かにおっしゃいました」
 女将はいたずらめいた眼差しを向けてくる。
「うみのさんははたけ様よりもお若くていらっしゃる。生きている年数、経験、すべてにおいて劣って当然。ですが、心意気まで負けるものじゃあありませんよ」
 イルカの傍らに膝を折った女将は、イルカの背をとん、とひとつ叩いた。
「若かろうが年をとっていようが、気持ちは負けちゃあ駄目です。資格がない? なら、資格がある人間になるように頑張りなさい。うちはそんなしゃっちょこばられるような旅館ではないですが、いたたまれないとおっしゃるなら、胸を張って泊まれるような人間におなりなさい。今に見ていろ、と、いつかなってやるって気持ちになりなさい。はたけカカシに大切に思われて当然だと胸を張れる人間になりなさい」
 真っ直ぐに瞳をのぞきこまれ、イルカは目を見張る。女将の鳶色の瞳に見透かされたものが見える。卑屈になった自分が、見える。
 イルカは口元をおさえて、うつむく。頬が熱くなる。馬鹿みたいだ。恥ずかしい。気後れして、発展途上の自分を押し出して。
「あ、ありがとうございます。なんか、一気に目が覚めた感じです」
「いいえ。こちらこそお客様に対して失礼なことを。どうぞ、ご勘弁くださいね」
 女将は少女めいた仕草で小首をかしげて謝罪した。



 すっかり心がほぐれたイルカは部屋でくつろぎながら女将と一時間ほど話をした。
 日常のこと、カカシとのこと、不思議とすらすらと言葉がでた。女将は穏やかな顔で、まるで本当の母親のように頷いて聞いてくれた。
 強かった陽射しが傾き始めた頃合いにそろそろ夕餉の支度にかからなければならないと席と立った女将は、離れの客だけが行ける高台があると教えてくれた。
 今日は風がいい具合に流れているから見えますよと言われ向かった先、開けはなった戸の向こうには真っ青な空が広がっていた。
 旅館は確かに山の中腹のあたりに建っているのだが、離れがある側、ぐるりと回った裏手は、地形の妙で落ち込む断崖となり、裏手から見れば中腹ではなく十分に頂上と言えた。
 頑強に柵が巡らされているがまるで空に身を投げ出しているような高台からは雲海が見えた。吹き抜けた風に飛ばされる雲。イルカの髪も煽られる。
 目を開ければそこには美しい火の国の緑が折り重なって遠く遠くまで広がっていた。
 果てのない景色に感嘆の声が思わず漏れていた。きれいな国だと思う。九尾の災禍に屈しないしなやかさも併せ持つ美しい国だ。
 ふとイルカは、先生のこと、仲間のことを思い出す。
 あの事件から、立ち直ることができたではないか。馬鹿だった自分を悔いて、進もうと思って、進んでいるではないか。決して卑屈になることはない。先生に、仲間に恥じないように生きているのだから。
 空に向かって顔を上げて、目を閉じる。深呼吸する。
 大きな自然に、小さな自分。
 小さいなら小さいなりにできることがある。ガキならガキなりにこれからいくらでも学んで、発展していけばいい。
 それだけのことだ。
 卑屈な自分を風に飛ばすように、イルカはそこにしばしの間、佇んだ。