センセーに口づけ 前編
カカシに会いにいくことを決めたというのに、急に任務が立て込んだ。
休んでいた分を取り戻したい気持ちもあり、少しきつい日程ではあったが、イルカは立て続けの任務を受けた。
そんな状況が落ち着いた日の早朝、任務報告をした足で、せき立てられる気持ちに押されてカカシの家に向かった。
カカシはいないかもしれない。休みで寝ているかもしれない。そう思いつつもはやる気持ちを抑えられずに走った。何を言いたいのか、言えばいいのか、わからない。決めているわけではない。それでも、カカシに会いたかった。
吐き出す息が白い12月の朝だが、寒さを感じることもなくイルカは走った。
だが、カカシが住むアパートが見える角を曲がった瞬間、一瞬にして体が冷えた。イルカの目に飛び込んできたのは、見たくもない光景だった。
ドアを開けたまま、話をしている二人。カカシが、女性を見送る為に立っている。カカシの前には、横顔と、着物の立ち姿だけでもわかる美しく艶っぽい女性。
楽しげに、慕わしげに、二人は会話を交わしている。
足を止めたイルカは、口を引き結んでいた。
どうして、と思う。
どうしてこんな見たくもない場面を見てしまうのだろう。
だが、そう思う気持ちの一方で、こんな偶然に巡り会うことこそがカカシとの絆を思わせて、早まる鼓動は痛くて、そして甘い響きをもってイルカの中を駆けめぐった。
その気持ちが、踵を返そうとした足を引き留めた。
そのまま足を進める。女性はカカシに別れを告げて、ドアは閉まる。すれ違った時、女性らしく華やいだ香りと、そしてカカシの匂いがするような気がした。
ドアの前で、深呼吸した。カカシはきっとイルカがここに立っているとわかっている。さきほどの光景を目にしたことも気づいているだろう。
帰って欲しいと思っているだろうか。会いたいと思っているだろうか。けれど今更カカシの気持ちなんてどうでもよかった。イルカが会いたいから、ここにいる。
「センセー、イルカです。話したいことがあるんです」
直接、声をかけた。たとえ顔を合わせたくない気持ちがカカシの中でまさっていたとしても、イルカのおとないを無視できるわけがないと、傲慢な確信があった。
それでもカカシのためらいをあらわすように、ドアはしばしの間沈黙を守り、観念するかのようにゆっくりと開いた。ちらりと視線を向けてきてすぐに目を逸らしたカカシは、とまどったようなぎこちない顔をしていた。
「おはようございます。朝早くからすみません」
機先を制するようにイルカはにこやかに声をかけた。かるく頷いたカカシに笑いかける。
「カズナからの伝言は聞きました。俺のほうこそ、失礼なこと言ってすみませんでした。本当はもっと早く謝りたかったんですけど、任務が忙しくてなかなか来れなかったんです」
「いや、イルカは悪くないから、気にすることはないよ」
小さな声でそう言って口元を緩ませる。そしてそのまま会話は途切れてしまう。用がそれだけなら帰ってくれと言わんばかりの空気になる。
だがイルカはそんなことで怯まずに、無神経に会話をつないだ。
「さっき、見ましたよ。きれいな人でしたね」
俯いたまま、カカシは表情を変えない。動揺も見せない。何も、言わない。
かたくななカカシに、イルカの中の苛立ちは沸騰した。
思わず手を伸ばしてカカシの腕をつかもうとしたその間際だった。
「触るな」
低い声で拒まれていた。激情を抑えるような、必要以上に冷静な声。イルカの伸ばした手は強ばった。
体の芯が冷えるような感覚に、イルカはかすかによろめく。
前向きになっていた気持ちに一瞬で冷水を浴びせられたような気がした。こみあげてくるものに思わず鼻をすすれば、カカシが慌てたように顔を上げた。
「ごめっ……、俺」
その、表情。一瞬で消えてしまったが、それが、イルカを落ち着かせた。
カカシが何かそれ以上なにか言う前に一歩身を引いた。
「それじゃあ、失礼します」
ドアを押して、すぐに背を向ける。背筋を真っ直ぐに伸ばして、早足で去る。背には痛いほどのカカシの気配を感じて、くすぐったいような、ぞくりとするような感覚を味わう。
「なんだ。やっぱ俺のこと、好きなんじゃん……」
イルカを案じた一瞬のカカシの顔。狂おしいほどの気持ちを抑え込んだ名状しがたい顔をしていた。
カカシは間違いなく自分のことが好きなのだと確信が持てる、そんな表情をしていた。
それからまた任務が続いたことはありがたかった。カカシの心は間違いなく自分の元にあることがわかったのだから、焦ることはないと、動き出したい気持ちを落ち着かせるにはちょうどよかった。
任務先で新年を迎え、新しい年に誓うことは止まったままの今を大きく動かしたいということだった。
だがそんなイルカの前向きな決意をあざ笑うかのように事態は動いていた。
「結婚?」
聞き返して、かすかに首をかしげた。任務から戻って早々、新年の挨拶をかねて火影の元を訪れたが、思いがけないことを言われた。
火影は、深く頷いた。
「そうじゃ。カカシめ、とうとう身を固めるそうじゃ」
火影は満足げに頷いているが、イルカは火影の言っていることがよくわからなかった。カカシという名の人間はイルカは一人しか知らない。イルカの知っているカカシはイルカのことが好きなのだから、結婚なんて文字が当てはまるような行為におよぶはずがない。
「あの、火影さま、誰が、結婚されるって言うんですか?」
「なんじゃ。言ったであろう。カカシじゃ。はたけカカシが結婚する」
「もう、なんの冗談ですか。新年早々やめてくださいよ。面白くないですよ」
イルカが呆れたように返せば火影はむっとした。
「なにが冗談だというのじゃ。ただの事実じゃ。それこそ奴が新年早々報告にきおったのじゃからな。かなりの美人じゃ」
「じゃあカカシセンセーがわざわざ冗談言いにきたってことですね」
笑顔で言い返せば、火影は急に表情を改めてイルカのことをのぞき込んできた。
「イルカよ、どうしたのじゃ。大丈夫か?」
「なんですかそれ。大丈夫ですよ。失礼します。俺、疲れてるんで」
何か言いたげな火影を振り切って火影宅を後にした。
思考停止したままで、自然と足は慣れ親しんだ場所を目指し、ふと顔をあげればアカデミーの校門に立っていた。
まだ休み中だが、仕事を抱えた教師たちは出入りしている。ひとけのない校舎のなか、足が向いたのは懐かしい教室。一度卒業してから、また戻った場所。
たてつけの悪い戸を開けると、窓からのあわい陽射しに舞う埃が見えた。ほっと安堵の吐息をついて、一番後ろの席に腰を下ろし両手で頬杖をつく。視線の先には、猫背の臨時教師。耳の奥には仲間のざわめき。いつだってよみがえる記憶。
色あせない記憶がぼんやりと膜を張ったようになるのは、どうしてか。
歪んで見えなくなっていくのはどうしてなのだろう。
嗚咽を堪えきれずに、イルカは机に突っ伏した。
いまだ正月気分を残す繁華街に向かって居酒屋に入った。カウンターの席で馬鹿みたいに浴びるように酒を飲んだ。味なんて感じるはずもなく、苦くまずいだけのものだった。徐々にもうろうとなってくる記憶、回る視界と思考。
店員に声をかけられ肩を揺すられ乱暴に振り払い、誰かの名を呼んだことは覚えている。ブラックアウトした記憶。
次にゆるやかに意識が浮上した時には、誰かの背に負ぶわれていた。懐かしく悲しい感覚。ぬくもりにぎゅっとしがみつけば、優しく揺すり返される。大丈夫だよとでもいうように、揺すられる。昼間あれだけ泣いたのに、また涙が盛り上がり、子供のようにわんわんと泣き続けた。
周囲の明るさに目を開ける。何回かまばたきを繰り返しぼうとしたままで重い体を起こす。周囲を見渡し、違和感を覚えた。知らない、いや、知っている部屋だ。床に敷かれた布団で寝ていたようだ。傍らのベッドには気配はない。出窓に置かれた写真立てを目にした途端、記憶が押し寄せた。
咄嗟に立ちあがろうとして襲ってきた頭痛にまた布団に突っ伏す。
カカシの、部屋だ。あの遠い日に目にしたままの部屋。
昨夜の記憶が全くないが、この部屋にいるということは、カカシに介抱されたことを意味するだろう。
二日酔いの痛みがなんとか少し収まり改めてきれいに整頓された部屋を見渡せば、やはりカカシの気配はない。
ベッドをつかった形跡もないということは、イルカをわざわざ客用布団に寝かせて、自分の部屋から敢えて出て行ったのだろう。
イルカのことを気遣って? イルカのことを思って?
そんなことさえ確信が持てなくなった。イルカを熱く見つめていたのはついこの間といってもいいくらいの時だ。それが、嫌いだと告げた途端に結婚。それなら徹底的に突き放せばいい。それが中途半端に優しくして。
枕元の写真立てには、あの運命の夜に、イルカがぐしゃぐしゃにしてカズナが突き刺した写真が収まっていた。もう一度たたき割ったなら、何かが変わるだろうか。またカカシの激情を弾き出すことができるだろうか。
そんな凶暴な思考のまま、思わず手に取ったものに力をこめてしまう。
けれどすぐに激情は去り、ふと目を閉じて、写真立てを元の位置に戻した。
人の気持ちほど、はかれないものはない。最初に別れを切り出した時、もしもカカシがイルカに執着をみせずに引いていたくれたなら、イルカも気持ちを引きずることなく次に踏み出すことができただろう。だがカカシに引きずられて、いつの間にか、深く深く愛するようになっていた。
いや、愛していたという気持ちに気づかされた。
気づかなければ、そのままでいられたら、それもひとつの幸せな生き方だった。
今からでも、平穏なものを求めればいい。カカシはそう思ったから、今度こそイルカとの決別を決めたということだろうか。
それなら、その決意を受け止めればいい。受け止めるしかない。
けれどこの気持ちは、どこに埋めればいいのだろう……?
後編