センセーに口づけ 後編







 うち沈んだ気持ちのままで部屋を出た。
 だが歩き出す前にふと振り返って、こみ上げる気持ちのままに玄関のドアを蹴っていた。
 どうして自分ばかりがこんな思いを抱えていなければならないのかと、理不尽な状況に怒りが沸く。カカシがイルカから逃げるのならそれでいいだろう。だが、曖昧なままで終わらせるのはずるい。そもそも事の発端はカカシにある。イルカに対してはっきりとけじめをつけなければならないのはカカシではないか?
 そこまで考えて、気づいた。
 イルカ自身も、けじめをつけなければならないのだと。伝えなければならないのだと。



「……カ。イルカ」
 遠くから聞こえてきた声に覚醒を促される。
 重いまぶたを開ければ、影が覆い被さっている。慌てて飛び起きそうになったがよく知った気配でカカシだということがわかり、ほっと息をついた。
 イルカから身を離したカカシは心配そうな顔でイルカのことを伺っていた。
「もう夕方だ。ずっと寝てたのか? 具合いでも悪いのか?」
 起きあがったイルカは今の状況に思い至る。
 一度出ていこうとした。だがカカシの態度がしゃくに障って、自分のけじめもつけていなくて、もう一度部屋に戻りそのまま布団の中にまるまったのだった。
「センセー……」
「どうした?」
 カカシの声は穏やかで、優しい。イルカを見る目も、落ち着いている。
「俺、全然覚えていないんですけど、迷惑かけたみたいですね。すみませんでした。でも自分の家なんだから出て行くことないじゃないですか。それとも俺と二人きりで部屋にいたらまた強姦でもしそうな気がしたんですか?」
「……イルカ」
 困ったようなカカシの声に、溜飲が下がるどころか、自己嫌悪に陥りそうになる。今更カカシを責めてどうなるというのだろう。滑稽なだけだ。
「結婚されるって火影さまから聞きました。おめでとうございます」
 精一杯の気持ちを込めて笑顔を見せたが、笑った途端、みじめな感情に支配されて、つい口を滑らせていた。
「でも上忍ってみんなセンセーみたいなんですか? ひとのことさんざん振り回しておいてさっさと結婚ですか。俺こそいい面の皮ですよね」
「それは……」
 しぼりだす声とうつむく顔は辛そうだが、カカシにそんな顔をする権利なんて、ない。辛いのはイルカのほうだ。きっとこれからずっと辛い。辛いものが心の核に根を張って、この先ずっとずっと心をむしばむことがわかる。
 静寂に支配された部屋の窓からは夕暮れの光が差し込んでくる。光と影が、部屋の中を寂しく浮き上がらせた。
「センセーは、ずっと俺のことが好きなんだと思ってた」
 ぽつりとこぼせば、カカシが弾かれたように顔を上げた。
 見開かれた右目の青が、イルカのことを見つめる。
 ずっと、そうだった。顔のほとんどが隠された中で、青の目はなによりもカカシの気持ちを伝えてきた。いつもイルカを息苦しくさせる思いをぶつけてきた。
 今はその目の奥に、イルカと同じ苦しみがひそんでいるのだろうか。
 カカシの思いを確かめたくて目を逸らさずにじっと見つめたが、どうしてか浮かぶのはカカシとの優しい思い出ばかりで、不意に泣きたくなった。
 思いを伝えなくても、己の中に抱えたまま生きていくのもひとつの答えだと、そんなふうに思えた。
 だから、深く、頭を下げた。
「長い間、ありがとうございました」
 ひとつ呼吸をして、顔を上げて、カカシを真っ直ぐに見つめて、今度こそ笑って告げた。
「お幸せに」
 なんとか笑顔を作ることができたが、口元がわななく前に顔を背けた。
 これが永遠の別れのわけではない。同じ里の忍なのだから、この先いくらでも顔を合わせる。口をきく。けれでこんなにも狂おしい思いを抱えたままで向き合うことはないだろう。
 いつかこんな辛さでさえも、思い出と呼べるものにかわってくれるのだろうか。
 家に帰って思い切り泣こう、そう思ってベストをひっつかむと飛び出した。
 なのに。
「イルカ!」
 カカシの声が名を呼ぶ。
 振り向くべきではないのに、呼ぶ声に引き止められる。行かなければと思う心に反して止まろうとする体。つまずきそうになって立ち止まる。
「イルカ」
 ただ名を呼んでいるだけなのにすがるような声は反則だ。
「イルカ、俺は」
 ただならぬ雰囲気の自分たちに、夕方の往来では人々が目を向けてくる。
 腹の底から息を吐き出した。
 周りが見えている。落ち着いている。突き動かそうとする衝動はあったとしてもやみくもではない。
 勢いに流されたわけではなく、凪いだような気持ちでもう一度イルカはカカシと向き合った。
 カカシは、思い詰めたような目をしてイルカを見ていた。
 その目が、雄弁に語っているではないか。イルカのことが好きなのだと。
「センセーは、この世の誰より俺のことが好きだよね」
 カカシはイルカの言葉に目を見張る。カカシの返事を待たずにイルカは続けた。
「俺も、センセーが好きだよ。でも多分俺は、恋人なんかにしたら最悪の人間だと思う。嫉妬深いし、独占欲が強いほうだし、心を許してくれた人間にはわがままになる。でも言うとおりにはならない。自分の要求ばがり押しつけて、相手は自分のことを許すのが当然だって思うよ。きっとそんな本性だと思う」
 自己分析を並び立てれば、カカシはかすかに笑った。
「それは、確かに最悪だ」
「だよね」
 つられてイルカも笑ったが、カカシは真剣な顔になる。
「今、俺のことが好きだって言った?」
「言ったよ。好きだって」
「でも、この間は、嫌いだって言った」
「言った。だって俺、センセーのこと嫌いだし」
「それは」
「でも好きだよ」
 困惑するカカシが面白くて、イルカは笑みを深くする。
「俺のことこんなぐちゃぐちゃにしたんだから、嫌いになるの当然だろ。センセーと出会わなかったら、俺はもっと楽に生きれたはずなんだ。でもさ、それでも出会って良かったって思うよ。ばっかみてぇ」
 カカシとの距離を詰めて、イルカも真剣にカカシを見つめた。
「どうして俺のこと引き留めたの。これからだっていくらでも会うのに」
「イルカこそ、どうしてあらたまって挨拶なんてしたんだ」
 すねて責めるようなカカシの声にイルカはふっと笑う。
「それはけじめだよ。だってセンセーは結婚するんだから」
 結婚という現実をもう一度突きつければ、カカシはあからさまに表情を暗くする。本当に、馬鹿みたいだ。イルカも、カカシも。きっともうずいぶん前から道はひとつにつながっていたのに、よくもまあこんなにも遠回りしたものだ。
「ねえセンセー。他に好きな人がいるのに結婚するのはよくないよ。相手に失礼じゃないの?」
 からかうように声をかけて挑むようにきつく見据えた。
「俺のことが好きなくせに。ばっかじゃねえの?」
 するりと頬を落ちる涙にカカシの手が伸びてきた。繊細な指先が、優しく頬を撫でる。イルカのことをいとおしむような目で見つめてくる。喉を鳴らしたカカシはわななく口で語り出した。
「俺は、イルカのためにならない人間だってやっとわかったから、結婚することにした。俺の方こそイルカより最悪なんだ。独占欲凄いし、嫉妬深いし、イルカのことを苦しめる。イルカが誰かと笑っていると俺以外に笑いかけるなよって思ったりする。イルカのこと閉じこめて俺だけ見て欲しいって思ったりもする。頭おかしいだろ? 狂ってるだろ? これ以上イルカに嫌われたくないから、もうやめようって思った。逃げようと思った。それも結局イルカのことを思っているんじゃなくて、自分のことばかり考えて、自分がこれ以上傷つきたくないから……」
「もういいよ。いいって」
 怖いくらいの独占欲を告げられたというのに、頬が熱くなる。熱のこもる視線に鼓動が高鳴る。自分のほうこそ狂っている、馬鹿みたいだと自嘲する。
 だがそんな自嘲さえ甘い響きをもって体中を満たし、心を打ち振るわせて、奏でる。
 愛を、奏でる。
 イルカは、カカシの首に手を回していた。ここが往来だとか、人の目だとか、どうでもよかった。体中に満ちた思いを、今こそカカシに告げたかった。
 背伸びして、唇を触れあわせる。
 顔を傾けて、ぎこちなくも口づける。口布の上からがもどかしくて、指先で布を下ろして、直に触れる。
 しっとりとした柔らかな唇にうっとりする。好きだと自覚のある人間の唇はなんて甘いんのだろう。
 口づけを終え吐息がかかる近さで見つめれば、カカシの目は驚きに見開かれ、喜びに濡れていた。
「センセーが、好きだよ。俺たち両思いなんだから俺たちが付き合えばいい。それが正しいだろ」
 イルカからの告白に、カカシの顔は見る間に赤く染まり、そして、ぼろぼろと泣き出すではないか。
 ぎょっとしたのはイルカだ。人前で口づけたことより、大の大人に往来で泣かれるほうがよほど恥ずかしい。
「ちょっ、と。センセー……」
 いきなり周囲を見回したイルカだが、強い力で抱き寄せられた。カカシに抱きしめられていた。
 耳元でくぐもった声。
 ただ一言すがるような声で「好きだ」と告げられた。「離さない」と言われた。
 イルカはカカシの背にすがりつくように腕を回した。必死で、精一杯の力をこめて抱きしめる。
 イルカの思いにこたえるような苦しいくらいの抱擁がカカシの気持ちを顕しているようで、眩暈さえしそうな幸せにイルカの視界もみるみる濡れていく。
 幸せにすがりついて、イルカは目を閉じた。