僕忍(ぼくにん)−イルカ− 転






 空が青い。澄み切った色合いが秋を感じさせる。スリーマンセルを率いていた頃はこんな季節には秋の収穫の手伝いの任務が立て続けにあって忙しかったものだ。
「カカシ先生。僕栗ご飯作ってきたんです。どうですか」
 イルカはそう言って弁当箱を二つ差しだしてきた。
 ぱかりと開ければひとつには光り輝く新米。もうひとつにはぎっしりと詰まった栗。
「あの、イルカ先生。これは、栗と、ごはん、ですよね」
 カカシがもっともなことを訊けば、イルカもあっさりと頷いた。
「僕まぜごはん好きじゃないんです。だから別々にして、交代でお口にいれるんです」
 イルカは実践して見せた。味をつけてあるごはんを頬張りつつ、栗も口の中に押し込んでもごもごと頬を膨らませる。そのさまがまたくるみなどをかじるリスにそっくりで、なぜかカカシはじっと見入ってしまう。
 懸命に咀嚼する姿から目が離せない。
 本日もまた演習。午前中の実践ばりの体術の訓練が終わり、二人はのっぱらで休んでいた。
「カカシ先生。食べないんですか? もしかして栗嫌いですか?」
 ごっくんと飲み込んだイルカが至近距離に顔を寄せてくる。黒々とした目をなぜかつぶらだ、などと形容してしまい、カカシはぶんぶんと首を振る。
「すすす、好きです。食べ、食べますから」
 カカシが慌ててかっこんで咳き込むと、イルカはポットからお茶を汲んでくれた。
「そんな大急ぎで食べないでくださいよ。その栗おじちゃまが送ってくれたものなんですよ。火の国大名御用達の農家から秋に献上されるものなんですって。味わって食べてくださいね」
 イルカはくすくすと笑いながら茶を差しだしてくる。
「あ、どうも……」
「いえいえ。お世話になっているカカシ先生のためですから」
 口の中で呟いたカカシにイルカは笑顔で頷く。相手に己のすべてをゆだねるような満開の笑顔にカカシはくらりとなる。くらりとなって、心臓を押さえる。
 そこはどくんどくんと脈打っていた。
 平常心平常心と念仏のように心で唱えつつ、カカシはちらりとイルカを伺う。イルカは栗とごはんの食事を続けている。遠くから聞こえる鳥の声に時たま空を見上げてにこりと笑顔になる。なにやらイルカは浮き立っているようだ。
「楽しそうですね。いいことでもありましたか?」
 思わず訊いたカカシにイルカは振り向いた。そして、生き生きとした目で告げたのだ。
「だって、演習もあと残り一回ですよね? そしたら試験受けて、僕念願のアカデミーの専属ですよ。だから嬉しくって」
 きゃーと叫んでイルカはばんざいをする。
 カカシは、と言えば、固まった。はしゃぐイルカを見ているが映っていない。呆然とイルカの言葉を繰り返した。
「あと、一回……」
「そうですよ。僕五代目に確認しましたから。もう嬉しくって。あ、試験が無事終わったあかつきには僕カカシ先生にご馳走しますね。カカシ先生についたおかげで、僕が決して忍者に対して後ろ向きじゃないってことはわかってもらえて、気持ちよくやめさせてもらえそうなんです」
 イルカは照れたように頭をかくが、カカシはあと一回という言葉が頭の中でエコーしていた。
 あと一回の演習で、イルカとはおさらば。それは願ってもないことだ。これで以前の日常に戻るのだし。そうしたらきっとまたイルカとは没交渉となり、ナルトを通じて時たま話を聞く程度となるだろう。
 ナルト。そうだナルト。
 泊まりの演習の翌日。森の入り口で待ちかまえていたのはナルトだった。
「イルカ先生。その顔、どうしたんだってばよ」
 イルカのすりむいた頬と腫れた口元を見てナルトは血相を変えた。
 その背にイルカをかばうようにしてカカシのことを睨み付けてきた。
「カカシ先生。泊まりで演習なんてする必要ったのかよ。しかもイルカ先生に怪我までさせて」
「おいおいナルト。演習に怪我はつきものだろうが」
 ナルトの剣幕にカカシはいなそうとしたのだが、ナルトは強い視線を向けてきた。
「俺ならイルカ先生に怪我なんてさせない。こんなことまでしなくていいよ。もう充分だ」
 ふくれっ面のナルトはカカシのことを睨み付けてくる。さすがにカカシも面白くない。別にイルカにわざと怪我させたわけではないしたいした怪我でもない。それになによりナルトのたっての希望でイルカの教官になったというのに、これではカカシに立つ瀬がないではないか。
 カカシとナルトの間に険悪な空気が流れる。一触即発といった空気にわってはいったのはイルカだった。
「ナルト。カカシ先生に失礼だぞ。この怪我は僕の不注意なんだから」
 小さな体でナルトに飛びつくが、ナルトは易々とかわしてしまう。
「イルカ先生は黙っててよ」
 しかしそれで大人しく引くイルカではなく、ナルトを遮った。
「こらナルト。カカシ先生はな、僕のこと心配してくれて添い寝までしてくれたんだぞ。カカシ先生は優しい人だぞ。僕は認識改めたよ」
 ああ、とカカシはなぜか思った。内心の動揺が情けないことに一瞬表面に表れた。
 それをナルトは見逃すことなくぶわりと不穏なチャクラが立ち上った気がした。
「カカシ先生。どういうことだよ? イルカ先生に添い寝? 添い寝なんかしたら二人とも寝ちゃうから見張りにならないじゃん」
 至極まっとうなことを言われてカカシはほっとする。勘ぐられたわけではないのだとほっとした自分にまた動揺する。
「大丈夫だよナルト。カカシ先生ほどの方なら寝てたってちゃんと起きてるんだから」
 イルカは暢気にフォローしてくれるがはっきりカカシは寝ていた。暖かな体と、成人男子にあるまじきなんとなく甘ったるいようなイルカの匂いに包まれて。
「お、俺、五代目に用があったんだよな。じゃあまた、イルカ先生」
 駄目だ、と思ったカカシは急いで身を翻した。不審に思われてもいい。ここに居続けたら暴走しはじめた回想にきっともっと醜態をさらすのが目に見えていたから。
 その日は散々だった。
 非番だった彼女の家に駆け込んで、無理矢理に体をつなげたがはっきり言って不発で終わった。早々に追い出されて飲み屋で泥酔。深夜にふらふらになって自宅に戻れば、ナルトが、いた。



 ナルトはいつから待っていたのだろう。まとう空気が冷えている。背を預けていた塀から体を起こすとカカシの目の前に立った。
「一応聞くけど、イルカ先生のこと変なふうに思ってないよね」
「変なふうってなんだよ」
「好きになってないよね」
 茶化すカカシにナルトはまっすぐに問いかけてきた。
 ナルトはまるでカカシのことを追いつめるように、ごまかしを許さない目で見つめてくる。
 カカシはぼんやりする思考を叱咤sる。観念して思うところを告げた。
「最初は、どうしようもない忍者だって思ったけど、まあ今は、いいんじゃないかって思える」
「じゃあ好きなんだイルカ先生のこと」
「好きか嫌いかって分け方をするなら、好きだな」
「わかった」
 ナルトはいきなり背を向けた。正直拍子抜けしたカカシはナルトの背に声をかけていた。
「おい、それだけか? そんなこと確認するために待っていたのか?」
 ナルトはぴたりと止まって、振り返ると大人びた顔をして微笑んだ。
「俺にとってイルカ先生のことはそんなことじゃないから」
「お前なんか誤解してないか? 俺はあくまでもイルカ先生のこと指導しているだけだし、お前が考えているようなことは」
「おやすみカカシ先生」
 カカシの言葉を遮ってナルトは大きな声を出す。それ以上は聞く必要はないとばかりに走って行ってしまった。
 そんなことが数日前にあった。
 そしていきなりの指導残り一回宣言。はっきり言ってカカシは忘れていた。こんなのどかな日々がこのまま続いて行くような気がしていたのだ。
 しかし木の葉の里は今は小康状態ともいえるような平穏を保っているが、大蛇丸、暁、と外の脅威がのぞかれたわけではなくナルトはもっともっと過酷な運命に進んでいくしかない。
「カカシ先生に言われてナルトと話したんですよ。そしたらナルトもわかってくれました。でもあいつまだまだ甘えん坊だから、絶対里にはいてほしいって言うんですよ。ちょっとした届け物程度の任務ならいつか一緒にやりたいって。だからこのまま里でナルトのことを迎えてやろうって思いました。おじちゃまには申し訳ないけど、僕木の葉の里が好きです。ずっと里にいます」
 悩みが消えて晴れ晴れとしたイルカだが、カカシは反対にずずんと気持ちが落ち込む。なぜこんなにも落ち込むのかがまたわからない。
「カカシ先生。お疲れですか?」
 黙ってしまったカカシを心配したのかイルカが手を伸ばしてきた。その手は露出しているカカシの右の目元のあたりの皮膚に触れた。
 男にしては柔らかな感触の手がそっと撫でていく。その心地いい感触にカカシは陶然となる。
「熱は、ないですよね? お疲れですか?」
 首をかしげるイルカ。不安げに目の光が揺れる。
「僕、カカシ先生にいっぱい迷惑かけちゃいましたよね。カカシ先生に指導してもらって改めてわかったんですよ。僕って本当にだめだめだったなって」
「いや、だめだめなんかじゃないですよ」
 カカシがやんわりと否定するとイルカはぷぅと頬を膨らませた。
「そうやって甘やかさないでくださいよ。自分が駄目忍だってことはわかってますから」
 ぷんと起こるイルカ。成人男子なのだが、その姿は、かわいいとしか思えなかった。
 ごくりと喉を鳴らしたカカシは、たまらず、イルカの頭に触れた。添い寝した夜に触れた感触がよみがえる。そろりそろりと撫でてやれば、イルカが目を見開いた。
「カカシ先生?」
「イルカ先生は、頑張りましたよ。だから」
 とつとつと告げれば、イルカは無邪気に笑ってくれた。
「ありがとうございます。カカシ先生は優しいですね。僕、カカシ先生のこと大好きです。前は嫌いなんて言ってごめんなさい」
 イルカは照れて笑いながらぴょこんと頭を下げる。
 その笑顔に誘われるように、カカシはイルカのことを引き寄せていた。小さな体をそっと胸の中に閉じこめる。
「カカシ先生?」
「ちょっと、そのままでいて。イルカ先生。俺、眠くて」
 いいわけにもならないことを口にしたがイルカは大人しくカカシの腕の中にとどまった。
 イルカを胸に抱いて熱くなる体。
 きっかけとか、これだ、と言える明確な理由なんて探す必要はないのだろう。
 手を伸ばしたくなる衝動とか、触れて鼓動を刻む体。これで充分だ。
 いつの間にか、イルカのことを特別に好きになっていた。





 イルカに告白する前にカカシは彼女に別れを告げた。いい加減気持ちでイルカに向き合いたくはなかったから。いきなりなことに一発頬を張られたが、さっぱりした気性の彼女はそれで許してくれた。
 最後の指導が終わって試験まで見届けてから告白をする予定だ。ナルトのことが気にならないわけではないが、前もって許可を得る必要はないだろう。イルカは誰のものでもないのだから。
 明日はとうとう最後の指導日となる前日。
 台風の到来で朝からうなり声をあげて風が吹き荒れていた。昼頃には雨が降り出し、雨脚はひどくなる一方でそのうちには雷が鳴り出した。雷鳴ととどろく音の間隔がほとんどない。どおんと腹の底に響いて家鳴りがする。どこかに雷が落ちたかもしれないと思うほどの音だった。
「イルカ先生、大丈夫かな」
 部屋の窓から外をうかがう。
 がたがたと窓は揺れ、外の景色はたたきつけるような雨でかすむ。暗い空は定期的にぴかりと光ってごろごろとこもるような音を響かせている。
 こんな天気の夜にイルカは一人で耐えられるのだろうか。部屋をうろうろとして心配していたが、たまらずカカシは家を飛び出した。



 イルカは親が残した大きな二階建ての木造の家に一人で住んでいた。
「イルカ先生。俺ですカカシです」
 インターフォンを連続で押すが返事がない。あせってドアを乱暴に叩く。
「イルカ先生!」
 雨の音にかき消されないように叫ぶ。もしかしてイルカは怖がって布団にくるまって震えているかもしれない。そんな想像を膨らますと矢も楯もたまらず、カカシはとうとう勝手にドアを開けた。忍術を使って無理矢理。
「イルカ先生」
「は〜い」
 防音がしっかりしているのか、家の中は外のうるささが嘘のように静かだった。
 せっぱ詰まって呼んだカカシの声にイルカがあっさりと部屋の奥から応える。
「カカシ先生。僕ちょっと動けないから、あがってくださ〜い。体濡れてるようでしたら脇のたなのところにタオル、入ってますから」
 イルカがてきぱきと指示するからカカシは己の慌てっぷりを恥ずかしく思いながらも体を拭いて部屋にあがる。チャクラの防御をしていたからたいして濡れてはいなかった。
「お邪魔しま〜す。イルカ先生、あの……」
「怖いよー。イルカ先生ー」
 居間に入った途端、かっと光った空。畳の間にはイルカが座り、そのイルカの腰にしがみついていたのは、ナルトだった。
「いらっしゃいカカシ先生」
 畳八畳ほどの部屋の中。イルカはにこやかに迎えてくれた。
「すみません。ナルトの奴が雷怖がって離さないんですよ」
「コワイヨー」
 ぎゅうとしがみつくナルトに苦笑しつつイルカは優しくナルトの髪を撫でている。
「おなかすいてませんか? 適当に冷蔵庫あさってくださいね」
 イルカは気を遣って声をかけてくれるが、カカシはそれよりもナルトに釘付けとなっていた。嘘くさい演技で、イルカにしがみつくナルト。そっと顔を上げてカカシと目が合うと、にっと目を細めて、イルカにさらにしがみつく。
「イルカ先生。俺、雷苦手だってばよ。もっとぎゅっとしてよ」
「ナルトー。僕より大きい体して。仕方ないなあ」
 口では小言を言いつつ、イルカの顔はでろでろにゆるんでいた。
「ほら、抱っこしてやるから」
 イルカの言葉にナルトはがばりと身を起こすと、正面からイルカにしがみつく。ナルトの上にイルカが乗り上げるような格好でどっちが抱きしめているのかわからないような構図になっているではないか……。
「怖いよー。もっとぎゅってしてよイルカ先生」
 言いつつ、ナルトの方がイルカのことを腕の中に捕らえて頭部にほおずりまでしているではないか!
 ぶちっと、脳のどこかの血管が切れる音をカカシは聞いた。二人に近づくと、どかりと座る。怪訝な顔をしたイルカににかりと笑うと、背中のほうからイルカに抱きついた。
「俺も雷怖いんです。もう怖くて怖くて、ついイルカ先生のに家に来てしまいました」
「ええ!? カカシ先生が? だってカカシ先生の得意技は“雷切”ですよね」
「そうですよ。あの技も怖くて怖くて、びくびくしながらやってるんです」
 イルカのつっこみに怯むことなくカカシはぺったりとくっついて後ろからイルカの腹のあたりに手を回す。
 そうなんですかあ、とイルカは納得しているが、イルカをはさんでナルトと目が合った。ナルトは目をつり上げて歯ぎしりしていた。カカシは大人の余裕で意地悪く口の端を歪める。
 ナルトは声に出さずに口の動きで話しかけてきた。
(イルカ先生から離れろってばよ!)
(お前こそ離れろ! 雷が怖いなんてあり得ないだろ)
(その言葉そっくり返すってばよ!)
 ばちばちと二人の間では外の雷に負けないくらいの火花が散るが、イルカは何も気づかずに、ナルトと後ろのカカシと慰めるように撫でてくれた。
「もう、二人ともしょうがないなあ。僕は雷なんて怖くないから、しっかりつかまってなさい」
 得意げに告げる無邪気な優しいイルカ。
 ナルトと睨み合いながらカカシはひとつの決意を固めていた。