僕忍(ぼくにん)−イルカ− 承






 イルカの小さな体からおどろおどろしいオーラが立ち上っているのが見えるようだ。
 イルカの指導を始めてから三日目。最初の二日間は基本的な術の再確認をした。さすがに現役教師だけあってスマートな術を使う。筆記に問題もない。となれば、実践を想定した実技を鍛えればいい。
 そんなわけで。
 演習ということで、中忍選抜試験にも使う森を訪れていた。カカシが指導する立場なのだから、ちょっとした荷物はもちろんイルカにしょわせていた。
 猫背のままイチャパラ片手にさくさく歩くカカシの後ろをぽてぽてとイルカが着いてくる。
 この二日の間イルカは文句ばかりだが、カカシとて貴重なオフを女と過ごすわけでもなく、精神年齢おこちゃま忍者の更正に努めるなど本当は勘弁してほしいのだ。
 だが、このイルカに対する若干の興味と、ナルトがいちいち報告を聞きに来る。そんな健気な姿を目にしては邪険にもできないではないか。
「なあナルト。イルカ先生、昔からああだったのか」
 お決まりの一楽でラーメンをすするナルトに問いかけてみた。なんと今夜はナルトの奢り。イルカが問題なく試験に受かるだろうと告げてやればナルトから一楽に誘ってきたのだ。
 ちゅるんと麺を飲み込んだナルトはふと優しい顔をして笑った。カカシが見たこともない大人びた顔をして。
「ずっと前なんだけどさ、授業中に、確か、外からでっけえ蜂が入ってきたんだ。イルカ先生おーどろいちゃってさー、逃げ回ったあげくなんかパニクったみたいですっころんだら、あの姿になってたってばよ」
「は〜。そんなことで隠してたことがばれちゃったわけ」
「もう超びっくりしたよ。俺たちとたいしてかわらない体してぴーぴー泣いちゃってさ。超かわいかった」
 ナルトはにしししとその時のことでも思い出したのか肩を揺らして笑う。
 アカデミー内ではちんまりイルカは公然の秘密だったということだ。
「そん時決めたんだ。俺がイルカ先生のこと守るって」
 ま、ミズキの時には守られちゃったけどさ、とナルトは小さな声で口を尖らせる。
「でももう絶対イルカ先生のこと泣かせたりしないってばよ」
 大切な者を守る自信をつけたナルトは輝いて見えた。



「カカシ先生。なんでこんな本格的なことするんですかあ」
「だってイルカ先生だめだめだから鍛え直さないと」
「僕は忍者やめるために試験受けるって言ったじゃないですか」
 きーっとかんしゃくをおこしたイルカがふたつの拳を子供のように振り上げる。
「今日は大好きなアニメがあるんです。早く帰してくださいよ」
「あ。今日泊まりだから」
 さらっとカカシが告げれば、イルカはぽかんとなり、次の瞬間には目をうるりとして怯えたようにまたたかせた。
「やだやだやだ。僕こんなとこ泊まれない。テレビ見たい。僕帰る」
 くるりときびすを返したイルカの首根っこを慣れた手つきでカカシはとっつかまえた。
「離してください。僕、帰ります」
「帰さないよ〜。今日はお泊まりだよ〜」
 まるで猫の子をつかむようにイルカを吊って、にやりと笑ってやる。うううう、とうなっていたイルカだが、きっ、とカカシを睨んでいきなり印を結んだ。
 変化のかけ声と共にぼふんと煙があがる。カカシの手にはちまっとしたうさぎがいた。カカシの一瞬の隙をついて、うさぎはかぷりとカカシの手を噛む。咄嗟に手を離したカカシから逃れて、駆けだした。
 素早い展開にカカシはイルカの去った方向を少しばかり見ていた。
「な〜んだ。結構やるんだ」
 しかし、つめが甘い。なぜあんなひ弱な動物に変化して逃げるのか。カカシはぷっと吹きだしていた。
「ばっかだね〜イルカ先生。ま、演習にちょうどいいね」
 カカシは楽しげに笑って右の親指に歯をたてた。





 イルカうさぎは短い手足を必至に動かして森の出口を目指していた。
 今日はイルカの大好きな女の子が活躍する回なのだ。あの子を地味なキャラだからあまり主役の回がない。数ヶ月に一回あるかないかだ。今日がその貴重な日。テレビの前で応援してやらなければならない。
 イルカのアドレナリンは最大に分泌された。たーんと大きな切り株を超える。出口はもうすぐだ。
 しかし。
 イルカは地面に着地できずに宙でキャッチされていた。声にならない叫びをあげてぎゅっと目をつむる。ぶらりぶらりと安定感のない状況におそるおそる目を開ければ、凶暴そうな顔をした大型犬に、しっかりとくわえられていた。喰われる! と衝撃にイルカは変化を解いていた。腐っても忍者。体術で犬の牙から逃れる。ポーチから手裏剣を取り出しつつ、木の上に駆け上る。おそらく口寄せと思われる大きな犬は、見た目とは違って軽い身のこなしで地を蹴った。
 手裏剣で応戦しつつ、術の発動のための印を切ろうとした。
「は〜いストップ」
 暢気な声。だが、首筋にはクナイの刃。イルカは咄嗟の判断で向かってくる忍犬のほうに飛んだ。影分身を数体作る。犬もカカシも一瞬迷うはずだ。これで逃げられる、と安堵したイルカは高く飛ぶ土台にしようと犬の頭部に足をのせた。途端、すこんとバランスが崩れる。べちゃりと地面に落下した。
 ぼんと大きな煙があがってカカシが口寄せを解除していた……。





 ひっく、ひーっくと盛大に鼻をすする音が続いている。顔面を打ち付けてしまったイルカは鼻血を止めるためのティッシュを鼻につっこんで、額と口元のあたりを赤くはらしていた。
 体育座りで涙をチョチョ切らせながら恨めしげにカカシに視線を固定していた。
 カカシは川でタオルを濡らして、イルカのところにもってきた。
「ほら。冷やしなさいよ」
「いりません」
 ふんとそっぽを向いて拒絶したイルカだが、首をひねった為にまたどこかが傷んだ。
「無理しないほうがいいですよ。かわいい顔が台無しになりますよ〜」
 カカシが茶化せばイルカは沸騰したように真っ赤な顔になって、わっと叫んだ。
「嫌いっ。カカシ先生嫌い!」
「はいはい。俺たち気が合いますね。俺もイルカ先生のこと嫌いですよ」
「ばかー!!!」
 うぎゃーとなったイルカは地面に突っ伏した。
 やれやれとカカシはため息をついた。
 忍服は切れて、体は打ち身。ぼろぼろになってしまったイルカだが、咄嗟のことにきちんと対応できていた。けれど実践から遠のいているせいか、ぴんと張った緊張感を保つことができずにつっこみどころが多い。まるでアカデミーから卒業したての昔のナルトのようではないか。中忍としては最低ラインの微妙な実力というところかもしれない。だが思ったほどにできないわけではなく、手裏剣も綺麗にとばして、体術もなかなか急所をついてうまく動いていた。
「ねえイルカ先生」
「嫌いー!」
 ひく、とカカシの口元は引きつる。きちんと話したくても話にならない。かろうじて舌打ちをこらえて、カカシはリュックをごそごそと探る。確か今朝、疲れた時には甘いものと言って彼女が入れていたはずだ。目当てのものをリュックの奥から見つけてパッケージを開けるとアーモンド入りのチョコは少しばかり溶けてしまっていた。ないよりいいだろうとカカシは柔らかく声をかけた。
「イルカ先生。甘いもの好きですか? チョコありますよ」
「ちょこ!?」
 がばりとイルカは身を起こす。
 カカシが差しだしたパッケージを見てぱあっと顔を輝かせる。
「僕ちょこ大好き」
 見えないしっぽをぶんぶん振ってカカシに詰め寄る。
「どうぞ。全部食べていいよ」
「ありがとーカカシ先生。好きー」
 現金なもので、イルカは手が汚れるのも気にせずにチョコをむさぼる。大好きというだけあって頬を膨らませてもぐもぐ食する姿は小動物のようでおかしかった。
 怒っても仕方ないか、とカカシはまったりとした気持ちにる。
「意表をつくって意味ならうさぎに変化したのもいいかもしれないけど、使えないんじゃ意味ないですよ」
「違います。そんなんじゃないです」
「じゃあなんでうさぎなんかに変化するんですか」
「かわいいから!」
「……はい?」
 イルカは大きな声で言い切ったのだからもちろん聞こえている。だがカカシは聞き返さずにいられなかった。
「かわいいから?」
「そうです。うさぎかわいいもん。僕変化する時はかわいいものにするって決めてるんです」
 まるで勝ち誇ったように満開の笑顔で堂々といいきるイルカにカカシは心の奥のほうでひゅーと風が吹いていくのを感じた。
「あの、かわいくても使えなかったら」
「かわいければいいんです」
 いっそすがすがしいくらいの信念。いちいち反論するのも馬鹿らしくなってカカシは話を変えた。
「ねえイルカ先生。あなた結構動けるじゃない。攻撃も仕掛けられる。忍として適正がないとは思わない。何もやめることないんじゃないの」
 ナルトに頼まれたからではない。カカシ自身がイルカはこのまま忍者でいてもいいじゃないかと思ったから口にした。
 もぐ、もぐ、と咀嚼しつつ、イルカはぼんやりとどこかを見る。
 指についたチョコもぺろりと舐めて、それでも呆然としたまま遠くを見ている。頬にチョコがついている。カカシは目についたそれを先ほどのタオルで拭ってやった。
「痛っ」
「あ、スイマセン」
 頬をおさえて、イルカはへにゃりと泣きそうな顔になる。
「僕、本当は忍者になる気なかったんです」
「そうなの? あ、どうりで中忍昇格遅いよね」
「僕、パパとママが九尾の事件で亡くなった時に、かたきを討つんだって決めて、それから無理矢理なったんです。じいやもばあやも反対したんです。でも僕、パパとママのこと大好きだったから、どうしても、かたきを討ちたくて」
 すんとイルカは鼻をすする。
「でも、忍者になって、九尾の正体っていうか、器になっちゃってるのがナルトだって知って、そんなの、ひどいやって思いました。だってナルトってすごくいい子じゃないですか。僕ナルトのこと大好きです。ナルトがかわいいです。ナルトの為に忍者続けてたんですけど、もうあの子は独り立ちしたから、これで僕の役目も終わったかなって思って。火影のおじいちゃまも亡くなっちゃったし」
 ナルトの為、というのはなるほどと思うが、しかしナルトのイルカに対する執着は形を変えつつあるのかもしれない。親鳥とヒナだったはずが、たくましく成長したヒナは親鳥を守ろうと羽ばたき始めた。
「だから僕忍者やめるってナルトにまず言ったんですよ。元々こんな体格だし。でもナルトの奴、駄目だって泣くんです。僕よりよっぽど大きい体して、僕にすがりつくんですよ。だから、僕、本当は、どうしたらいいと思います、カカシ先生」
 いきなり振られてカカシはぱちぱちと瞬きを繰り返す。はっきり言って何も考えていなかった。どちらかというと他のことに気をとられていた。
「うん。ねえイルカ先生。先生って、もしかして、火の国の大名の、海野家の、親戚……?」
「そんなことどうでもいいじゃないですか。それより僕は」
「そうなの?」
「そうですよ。ママが、海野の今の当主の、腹違いの姉だったんです」
 イルカはなんでもないことのように答えたが、カカシはまじまじとイルカを伺ってしまった。
 海野家と言えば、火の国で五本の指に入る名家だ。木の葉の里のことも常に気をかけてくれ、確か三代目の葬儀には当主自らが列席していた。
「えーと、じゃあ、イルカ先生って現当主の、甥っ子ってことだ」
 カカシが確認すれば、イルカはしゅんとうなだれた。
「おじちゃまにも、忍者はやめろって言われてたんです。ママのことを亡くしたことも悲しかったみたい。だから今回、忍者やめても、アカデミーに残れるように、それくらいは手配してやるっておじちゃまも言ってくれてるんですけどね」
 はふーとため息をつくイルカがまさかそんな身分の存在だったとは。世の中わからないものだ。
「僕、このまま試験受けないでやめたほうがいいのかな?」
 イルカは思い詰めたようなうるりとした目でカカシのことをまっすぐ見つめてきた。
 イルカなりに思い悩んでいたことがわかりカカシは安堵する。決して中途半端な気持ちでいたわけではないということか。
「まあそんなすぐに結論ださなくてもいいじゃないですか。まだ試験まで時間があるんだし。ナルトと、もっと話してみるのはどうですか」
 カカシが穏やかに提案すればイルカは安心したようににこりと笑った。チョコを頬にはりつかせたままの無邪気な笑顔がカカシのことも和ませる。
「そうですね。戻ったら、一楽にでも誘ってみます」





 寝ずの番の交代の時間になってカカシはぱちりと目を覚ました。
 毛布にくるまって体育座りのイルカは明らかに船をこいでいる。たき火はとっくに消えていたようだ。
「しょうがないな」
 穏やかな寝顔には怒る気力もわなかい。
 カカシは苦笑して寝ているイルカをそのままそっと抱えて地面に横たわらせてやった。
「普通、起きるよな」
 じっと寝顔を見つめて、すりむいたところを避けてぷにぷにとした頬をつつく。ん、と身じろぎするが起きる気配はない。
 ようするにイルカはおぼっちゃんなわけだ。海野家という巨大なバックボーンがあるのだから、とうに忍者などやめていてもよかったはずなのに里の危機には忍として勤め上げた。三代目への恩義とナルトの為ということか。
 深い師弟愛が羨ましくもあったが、しかしナルトはイルカが思うような気持ちでイルカのことを見ていないようなのは明らかだった。
 カカシがぼんやりとしたままイルカの頬に触れていたら、急にイルカが何か口にした。寝言のようだが、寝返りを打ってカカシのほうにすり寄ってきた。
 なぜかどきりとしてカカシは身を引いた。はっと気づいて慌てて頬から手を離す。こんな、男相手に何をしているのだと己が恥ずかしい。
「……」
 またイルカが何か言ったから耳をイルカの口元に寄せてみた。
 小さな頼りない声は「ママ、パパ」と言っていた。そしてイルカは目尻からぽろりと涙を落とす。
「!」
 カカシは跳ね上がった心臓を押さえて、食い入るようにイルカを凝視する。
 こんないい大人が、寝言で両親のことを口にするなど、ふざけるな、とどこかで思うのだが、口を堪えるようにかみしめているイルカを見ていると、カカシはほとんど無意識にイルカの横に添い寝する形をとった。
 涙を指先で拭ってやって、イルカのこをと抱きしめる。
「泣かないでよ」
 耳元で優しく言えば、イルカのこわばっていた顔がゆるんだ気がした。





「カカシ先生のおかげで風邪引かずにすみましたー。ありがとうございますぅ」
 翌朝、イルカは礼儀正しく頭を下げてさわやかに笑顔を見せたがカカシは直視できずに適当に返事をした。
 結局イルカを抱き込んで眠ってしまい、もぞもぞと腕の中でみじろぐ気配にぱちりと目を開ければ、眼前にイルカの大きな目があった。
 男同士、抱き合って寝ているありえないシチュエーションに咄嗟にいいわけもできずにカカシは硬直した。
 だがイルカはにこおと笑ったのだ。
「ありがとうございます。添い寝してくれたんですね。あったかかったです」
 結局いいわけをすれば情けないことになるのは目に見えていたからカカシはイルカの解釈にゆだねた。
 イルカはてきぱきと後かたづけをして、出発するだけとなった。
「カカシ先生。出発準備オッケーです!」
 元気よく告げて敬礼するイルカ。
 その笑顔を。

 かわいいと、思ってしまったカカシだった。