愛はたまご 4



 任務からもどった日の夜、久しぶりにカカシがイルカの家を訪れた。
 気まずく別れたあの夜のことなど遠い昔のことに思えるくらいには日が経っている。それでも緊張を解こうとへらりと笑って迎えれば、カカシは優しい顔でくすぐったそうに笑う。そんな顔をすると昔を思い出す。
 セーエキ、なんて言っていた頃の……。
 と思ったのがスイッチを押したのか、部屋の中、カカシが座ってくつろごうとしているところ、茶のひとつもだしてもてなすこともせずに卓袱台の上に小瓶をさしだしていた。そしてつるりと口にしていた。
「セーエキ」
 カカシの顔は、笑いの表情を刻んだまま固まった。イルカはカカシを凝視して目を逸らさない。
「これ、俺のセーエキだ。やる。今更だけど、やるから、飲め」
 カカシは、小瓶をじっと見たまま、動かない。そのまま数分。
 イルカとしては、カカシは大喜びの大はしゃぎでそのまま栄養ドリンク一気飲みの勢いで口にすると思ったのだ。それが、無表情のまま、じっと、小瓶を見つめている。
「これ、どしたの?」
「どうしたって、そりゃあ、まあ」
 はは、とイルカは笑いで誤魔化す。視線を逸らす。まさかカカシで抜いた時に出しました、と言えるわけがない。
「そういうこと、訊くなよ。わかるだろ、どうしたかなんて」
「イルカ」
 固い声にもう一度カカシを見た途端、イルカは瞬時に悟った。
 失敗した、と。
 イルカのことを見るカカシは見たこともないような冷めた目でイルカを射抜いた。
「精液、飲んで欲しいの?」
 すっと身を引くが、カカシが追ってくる。
「いや、お前が、飲みたがってたから……」
「だからさ、飲んで欲しいんでしょ。俺とセックスしたいの?」
 小馬鹿にした顔で笑われて、イルカは思わずカカシの手を弾いていた。かっとなるのは、心のどこかが、ぎくりとしたからだ。
「誰がそんなこと言ったよ。ふざけるな」
「ふざけているのはイルカのほうだ」
 カカシの声は平坦だった。イルカのことを見据える色違いの瞳は、とても静かで、そしてどこか悲しげだった。子供の頃、何回もカカシを泣かせた。最初はただ泣くだけだったカカシがだんだんと悲しみを内にためるようになって、我慢するカカシがイルカにはとても痛かった。
「あ、ごめん……」
 正直なところ、なにが悪かったのかわからなかったが謝罪の言葉を口にした。だがカカシは無言で立ち上がると、上着をとって玄関に向かってしまう。
「カカシ、待てよ。俺が悪かったって謝っただろ」
「謝ってなんて欲しくない」
「じゃあどうしろってんだよ」
 狭い家だ。慌てなくてもカカシに追いつく。玄関でカカシの二の腕をとれば、数瞬の間。くるりと振り向いたカカシは強い目でイルカのことを睨み付けてきた。
「戻って来て、もう一年経った。何かない?」
 カカシは、明らかに怒っている。だが、何かない? と言われてどう返せばいいのか、イルカには咄嗟に思いつかなかった。
「何かって……。何だよ。わかんねえよ、言ってくれよ」
 カカシはこれ見よがしなため息をついた。
「俺、戻って来てすぐ一緒に住みたいって言ったよね。昔みたいに一緒にって。その意味考えてくれたことある?」
「それは、だから、昔みたいに」
 昔、みたいに。
 卵だったカカシが孵って、幼児から猫耳を生やした子供になって、大人になって、たまごに戻って、そしてまた生まれて。
 カカシと生活していた浮き沈みの激しかった日々。そこには楽しいことよりも、心を疲弊させるようなしんどいことのほうが多かった気がする。
 それでも……。
 それでも間違いなくあの日々には愛と呼ぶべきものが満ちていた。
 ぼんやりと考えていたイルカは、カカシに強い力で引き寄せられ、両肩を押さえつけられる。苦しそうな、けれど泣きそうなカカシの顔に、イルカは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 ずっと、カカシの思いをきちんと正面から受け止めずにいた。
「お前ぇが、俺のこと、好きだってことは、わかってる」
 罪悪感が先にたって、どうしても声が小さくなってしまう。そんなイルカの些細な感情など押しやるようにカカシはゆるく首を振った。
「わかっているなら、どうして、精液なんて。デリカシーないよ。この間の夜も、あんなくっついて、誘うみたいに」
 誘うみたいに。
「……そっか」
 カカシのひとことが、イルカの中にハレーションを起こす。
「そうかあ。そうだったのかあ」
 はは、と鼻の傷をかいて苦笑するイルカにカカシはむっと口を尖らせる。
「なに笑ってるの。俺にはイルカだけなのに、あんな、他の誰かとやった時にだしたもの俺に渡すなんて、ひどいよ」
「他の、誰か?」
「寝たってことだろ!」
 なにやらカカシは誤解しているようだ。セーエキをだす、イコールセックスするという図式がカカシの中ではできているようだ。確か一度、一人でやろうとしているところを見られた事があったはずだが、その行為がアレをだすということに結びつかないのだろうか。
 ひどいひどいと連呼して、涙ぐんでいるカカシの誤解を解くには、正直に、告げた方がいいだろう。
 とても、不本意だが。
「ばあか。誰とも、寝てねえよ」
「嘘だ!」
「信用ねえな、俺」
 苦笑する。体の力を抜いて、手を伸ばす。カカシの頭を撫でる。ゆっくりと、何度でも。カカシの激情がおさまるまで。
「なあカカシ。本当に誰とも寝てないからな。アレはさ、自分で、自分一人で、だしたんだよ」
 カカシは顔をあげて、色違いの目を潤ませてじっと見つめる。涙目のカカシはなにやら小さな頃を思い出させる。頬についた涙を手のひらで拭ってやって、にかりと笑う。
「カカシのことおかずにして、出したんだよ。ばーか」
「おか、ず……?」
 ぱちぱちと目を瞬かせるカカシは本当にわかっていないようだ。イルカは思い切ってカカシの頬を挟むと、えいやっと不器用なキスをした。
「カカシのことが好きなんだよ。好きだから、カカシのこと考えたらおったてて、セーエキだした。すげえ気持ちよかった! てことだよ」
「す、き?」
 呆然と、カカシは呟く。好き、好き、と口の中で何回か繰り返したあと、ぼっとカカシの顔は点火した。
「イ、イルカ、俺のこと、好きって言った?」
「言った。この際言っておくけど、あの夜もカカシのこと無意識に誘っていた気がする。さっき自覚した」
 きっぱり肯定する。カカシは真っ赤になったまま、今度はだらだらと汗をかく。
「え、ええと。俺、俺」
 カカシは口もとをおさえて、潤んだ目でちらちらと怯えたようにな視線を送ってくる。
「本当に? 本当に、俺でいいの?」
 怯える愛しい子供を、イルカは抱きしめる。
「お前がいいって、気づいた」
 遅くなってごめんと付け加えておいた。



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